戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 19:45 UTC 版)
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戦役(せんえき)は、戦争状態にある両軍が行う、相互に関連する一連の軍事行動を言う。戦争の一局面であり、機動や戦闘などの行動の総和である。
戦役の概念
戦争を計画・実行したり、観察・記述したりする際には、戦争の全体を局面ごとに分割して整理することが望ましい。そのような分割の単位が、戦役である。
戦役にあたる西欧語(英語のcampaignなど)の語源は、ラテン語の campus で、平地の広場を意味し、転じてそのような場所を用いる施設をも指す。軍事では練兵場を指し、訓練済みの兵士をcampigeni と呼んだ。ローマ軍(および後の多くの軍隊)は、冬に軍事活動を停止して冬営することを常としたので、軍事活動はその年の春に始まり、秋に終わった。何年も続く長い戦争の場合であっても、敵味方の機動と戦闘はたいてい秋までに切り上げられ、次の年の活動とは明確な区切りがついた。こうして区切られる一年の軍事活動が「戦役」であった。
また、軍事行動が行われる地域が二つ以上あって、それぞれ相互の軍の行動が干渉しあわないほど遠いときには、その地域を単位として戦役に分割する。
戦役は、戦闘を含み、さらに軍隊の移動、にらみ合いなど戦闘がない休止期間も含む。しかし、軍備や軍費などの戦争全体の管理にかかわる問題は含まない。このような区切りは、戦場の司令官の関心範囲をあてはめたものと考えれば容易に了解できるだろう。
期間についても地域についても、戦役は戦争を便宜的に分割したものであり、単純に適用しがたい例は多い。特に軍事行動の冬季中断がなく戦闘の範囲が広がった近現代には、一年単位で分割する必然性はないので、その傾向が大きい。
他の用語との関係
作戦は戦役かその一部の計画、戦略は戦役の技術・計画である。戦役が終始一方の計画通りに進んで一区切りつくなら、作戦と戦役は一致する。そうした場合には、作戦名が戦役を指す名として通用することにもなる。作戦通りにいかない場合には、作戦を超えて戦役が続くことになる。
古い時代の日本や中国にも、類似の思考はあるが、独立した用語を作るまでにはならなかった[1]。日清戦争を「明治二十七八年戦役」というように、かつての日本語の「役」・「戦役」は軍事動員を指して間接的に戦争を表現したもので、本項でいう戦役とは異なる[要出典]。戦前も本項でいう戦役の用語・概念はあったが、それは ヨーロッパの戦史に触れるときに現れる用語であった[要出典]。
脚注
関連項目
戦役(1622年 - 1623年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/16 13:54 UTC 版)
「クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル」の記事における「戦役(1622年 - 1623年)」の解説
1621年、クリスティアンは前年の1620年にビーラー・ホラの戦いで大敗してボヘミア王位を追われたフリードリヒ5世の配下に入った。フリードリヒ5世は1618年に反乱を開始したボヘミアのプロテスタント派の指導者であった。クリスティアンがフリードリヒ5世に仕えるようになった理由は議論があるが、彼は戦役に加わる以前にフリードリヒ5世の美貌の妻エリザベスに騎士道上の愛を誓っており、これが影響した可能性はある。エリザベスの父親であるイングランド王ジェームズ1世は娘婿の戦争に協力する為、サー・ホレス・ヴィアー(英語版)率いる軍隊数千人をプファルツ選帝侯領に送り込んでいた。 1621年末までにクリスティアンは1万人の兵を募る事が出来た。彼は自軍と共にヴェストファーレンで冬を過ごし、ミュンスター司教区とパーダーボルン司教区で多くの富を収奪した。クリスティアンの軍事活動は、マンスフェルトがクリスティアンの軍隊と自軍の連携を求めた1622年に始まった。マンスフェルトは同盟者のバーデン=ドゥルラハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒがヴィンプフェンの戦いで大敗して自軍を壊滅させて以後、特にクリスティアンを頼みにするようになった。 クリスティアンとマンスフェルトは1622年6月22日のヘーヒストの戦いで共同して戦った。クリスティアンはこの戦いで大敗し、彼とその軍勢は激しい追撃を受けつつマイン川を渡って退避し、食糧を全て失ったにもかかわらず、軍勢の大半が生き残る事が出来た。しかしプファルツはがら空きとなり、ティリー伯率いるカトリック軍がプファルツの首都ハイデルベルクを陥落させ、フリードリヒ5世が三十年戦争から手を引かざるを得なくなると、新しく組織されたプロテスタント連合軍はアルザスに拠点を移した。 アルザス地方で激しい略奪と破壊行為を働いた後、クリスティアンとマンスフェルトは北のロレーヌに移った。両者はスペイン軍がベルゲン・オプ・ゾームを包囲したニュースを耳にすると同市に進軍し、8月29日にフルーリュスの戦いでスペイン軍と交戦した。この戦いの最中に、クリスティアンは有名な勇気と不屈の精神を発揮し、フェルナンデス・デ・コルドバ将軍が指揮するスペイン軍の戦線に騎兵部隊を引き連れ4度突入しながら失敗したが、5度目の突入でスペイン軍の戦線を破り、10月にはベルゲン・オプ・ゾームを解放する事に成功した。勝利したとはいえこの戦いでクリスティアンの歩兵隊の大部分と騎兵隊一隊が失われ、戦後クリスティアンは1622年から1623年にかけての冬をスペイン領ネーデルラントで過ごし、軍隊を静養させ、新たな兵を補給した。1623年の春には、クリスティアンの軍は約1万5000人になっていた。 1623年の春、クリスティアン、マンスフェルト、トランシルヴァニア公ベトレン・ガーボルとその同盟者トゥルン伯爵のあいだで、フリードリヒ5世主導のプロテスタント派によるボヘミア再奪取が計画され始めた。この計画はプロテスタントが劣勢な三十年戦争の情勢を打開する目的もあったが、ティリーがこの計画を聞きつけてニーダーザクセンに陣取った事で最初から困難に陥った上、クリスティアンはマンスフェルトから、自軍に払う金がなく遠征などままならないので北に留まる事にすると告げられ劣勢を強いられた。 ティリーの軍隊に数の上でも規律でも劣っていたクリスティアン軍は、とりあえず比較的安全なオランダに留まった。しかし、クリスティアンはティリーに裏をかかれてオランダ国境で追いつかれ、勇猛さを発揮したものの、8月6日のシュタットローンの戦いで敗北した。この戦いでクリスティアン軍1万5000人のうち無事だったのは2000人程度で、後は戦死か捕虜となった。自軍を壊滅に追い込まれたクリスティアンは、生き残った軍勢を連れてハーグに逃亡した。
※この「戦役(1622年 - 1623年)」の解説は、「クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル」の解説の一部です。
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