ぐん‐えき【軍役】
ぐん‐やく【軍役】
読み方:ぐんやく
「ぐんえき(軍役)2・3」に同じ。
軍役
軍役(知行高別の装備)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:25 UTC 版)
「越後長岡藩」の記事における「軍役(知行高別の装備)」の解説
軍役は各知行高に応じた装備と従者の人数を揃える義務(以下に主な例を示す) 高1200石 …… 山本勘右衛門(家老) 家来(士分2名、内1人は騎士持槍免許)、用達し若党1名、大砲(大・小)2本・鉄砲2挺(若党14人)、持槍3本(3人)、長刀1本(1人)、以下挟箱持ち・馬の口取り・草履取り・兜立て持ち・小荷駄口付き・弁当持ち・その他の中間・小者を合わせて、総勢59人(本人除く以下同じ)。 高500石 …… (寄会組格) 若党6人(内2人鉄砲持、刀・筒持各1人、槍持2人)、以下挟箱持・馬の口取り・草履取り・弁当持ちその他の中間・小者を合わせて25人。 高180〜250石 …… (番頭格) 若党3人(内鉄砲持1人)、槍持1人以下挟箱持・馬の口取り・草履取り・弁当持ちその他の中間・小者を合わせ13人。 高100石以上 …… (騎士) 若党1人、槍持1人以下挟箱持・馬の口取り・草履取り・弁当持ちその他の中間・小者を合わせ10人。
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軍役
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「ハミルトン・フィッシュ3世」の記事における「軍役」の解説
「第369歩兵連隊 (アメリカ合衆国)」も参照 アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦する以前、フィッシュは第15ニューヨーク歩兵隊K中隊の大尉であった。連邦軍のために第15歩兵隊が動員されたとき、(第15ニューヨーク歩兵隊が動員を受けて改めて指定されたこともあって)フィッシュはウィリアム・ハワード大佐からの第369合衆国歩兵連隊(英語版)でその地位を保持するように、との申し出を受け入れた。第369歩兵連隊はアフリカ系アメリカ人の下士官兵と白人の士官(及び開戦時は少数の黒人士官)から成る部隊であり、ハーレム・ヘルファイターズ (Harlem Hellfighters) として知られるようになった。第369歩兵連隊は第93歩兵師団に配属された。 ウィルソン大統領がドイツに対して宣戦布告(1917年4月)した後の夏に、フィッシュと約2000人の兵士はキャンプ・ホイットマン(ニューヨーク州)で訓練を開始した。1917年10月、部隊は更なる訓練のためキャンプ・ワズワース(サウスカロライナ州)への移動を命じられた。1917年11月、連隊はUSS"ポカホンタス"に乗船し、フランスへ向けて出航したが、その後間もなく船はエンジントラブルのため陸地に引き返した。再び出発に失敗した後、船は1917年12月13日に出航した。他の船と衝突したり、ドイツの潜水艦から船を守るための駆逐艦による護衛がなかったりしたにもかかわらず、連隊は無事にフランスに到着した(フィッシュは護衛が付かなかったことについて、海軍次官補のフランクリン・D・ルーズベルトに不満を述べた)。 フィッシュと部隊は12月26日にフランスのブレストに上陸した。第369連隊は、アメリカ合衆国のジョン・パーシング将軍により、フランス陸軍の指揮下に置かれた。総じて、第369連隊は191日間を前線で過ごしたが、これは他のどのアメリカの連隊よりも長かった。また、連合国として最初にライン川に到達した連隊でもあった。フィッシュはシルバースターとフランスの戦功十字章 (Croix de Guerre) を受章した。加えて、フィッシュと、前線近くで看護婦として働いた姉のジャネット・フィッシュの二人は、その戦時の活躍を讃えて、後にレジオンドヌール勲章を受章した。 フィッシュは1919年3月13日に少佐に昇進し、同年4月25日にアメリカに戻った。フィッシュは1919年5月14日に軍を除隊したが、1940年代まで予備役将校部 (Officers' Reserve Corps) に属し、最終的に大佐の階級に上がった。
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軍役
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「エグモント・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルト」の記事における「軍役」の解説
プリンツ・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルトは1936年の18歳のときにオーストリア連邦軍に入隊し、当初は歩兵部隊に所属していた。1938年のアンシュルスの余波の後、オーストリアはナチス・ドイツの大ドイツに併合されリッペ=ヴァイセンフェルトはドイツ空軍に移籍して1939年に少尉に昇進した。1938年にはドイツ空軍のパイロット徽章を取得し、フュルステンフェルトブルック、シュライスハイム、ウィーン=アスペルンで更なる訓練を受けた。ドイツ空軍での経歴を第76駆逐航空団/第II飛行隊で始め、1940年8月4日に第1夜間戦闘航空団(NJG 1)に異動した。この部隊はギュータースローに基地があり、ここで夜間戦闘機の扱い方を習得した。 1940年の夏に最初の夜間戦闘機はオランダのレーワルデンに移動し、プリンツ・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルトはこの小規模の分遣隊のパイロットの一人であった。1940年10月20日には早くもスキポール、後にベルゲンを拠点とする独立夜間戦闘機コマンドの指揮を引き継いだ。英空軍(RAF)爆撃機に対する最初の迎撃が1940年11月16日から17日の夜に行われ、プリンツ・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルトは0205時にRAF第115飛行隊のビッカース ウェリントン爆撃機を撃墜した。2機目は1941年1月15日の夜にリントン・オン・オース空軍基地を拠点とするRAF第58飛行隊所属のアームストロング・ホイットワース ホイットレイ 「N1521」機をオランダ北部の海岸で撃墜した。1941年3月13日、プリンツ・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルトはNJG 1/第4飛行中隊のメッサーシュミット Bf 110 D-2(製造番号:W.Nr. 3376)に通信士のヨーゼフ・レネッテ(Josef Renette)と共に搭乗している時に敵機の反撃を受けて被弾し、乗機をベルゲンに緊急着陸させて両名共に負傷した。1941年4月10日の真夜中を少し過ぎた頃にプリンツ・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルトはRAF 第12飛行隊のウェリントン爆撃機をアイセル湖上空で撃墜し、NJG 1の総撃墜数を100機にした。ヨーゼフ・カムフーバー将軍、ヴォルフガング・ファルク、ヴェルナー・シュトライプ、ヘルムート・レントやその他の面々が出席してアムステルダムのアムステル・ホテル(Amster Hotel)でこの記録を祝う会が催された。1941年6月30日にプリンツ・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルトがBf 110 C-4(W.Nr. 3273)に搭乗して北ホラント州上空の迎撃任務に従事しているとき、NJG 1/第4飛行中隊のルドルフ・シェーネルト少尉が操縦するBf 110 C-7(W.Nr. 2075)と衝突しベルゲン・アーン・ゼー近くに不時着した。1941年6月19日に都合4回のうちの最初となるプリンツ・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルトの名前がその日の「国防軍軍報」で採り上げられた。1941年6月までに撃墜数は10機となり、中尉に昇進したプリンツ・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルトは1941年11月15日に第2夜間戦闘航空団/第5飛行中隊の中隊長になった。1941年の末までに総撃墜数は15機となっていた。 プリンツ・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルトは1942年1月25日にドイツ十字章金章を、3月26日から27日の夜にかけて4機のRAF爆撃機を撃墜して撃墜記録を21機にしたことで4月16日には騎士鉄十字章を授与された。この1晩に4機の戦果により3月27日に3度目となる「国防軍軍報」での言及をされた。1942年7月までにプリンツ・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルトは37機撃墜の記録をもってしてドイツ夜間戦闘機パイロットのトップの一角を占めることとなっていた。 大尉に昇進したプリンツ・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルトは1942年10月1日に第3夜間戦闘航空団(NJG 3)/第I飛行隊の飛行隊長(Gruppenkommandeur)に任命され、そこで更に3機の戦果を挙げた。1943年5月31日に再度NJG 1に戻り第III飛行隊の飛行隊長に就任し、1カ月後に45機目の撃墜を記録したことで8月2日には柏葉付騎士鉄十字勲章を授与された。 1カ月間の入院後、プリンツ・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルトは少佐に昇進し1944年2月20日に第5夜間戦闘航空団(NJG 5)の戦闘航空団司令に任命された。彼と搭乗員のヨーゼフ・ルネッテ(Josef Renette)曹長(Oberfeldwebel)、クルト・レーバー(Kurt Röber)伍長(Unteroffizier)は1944年3月22日のパルヒムからアティー=ス=ラオンへの定期飛行中の航空機事故で死亡した。ベルギー上空で彼らの機体は雲海が低く激しい吹雪の悪天候域に遭遇したらしく、翼に着氷したために低空飛行を強いられて機体が高地のアルデンヌに激突したと推測される。この飛行の正確な状況は不明だが、メッサーシュミット Bf 110 G-4の登録記号C9+CD機(製造番号:W.Nr. 720 010)はサン=テュベール近郊のアルデンヌ山脈に激突し、翌日になって完全に燃え尽きた残骸が発見された。1944年4月15日にリンツの教会で葬儀が執り行われた。エグモント・プリンツ・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルトとハインリヒ・プリンツ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタインはオランダのエイセルスタインで隣り合わせて埋葬されている。
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軍役
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「ジェニファー・プリツカー」の記事における「軍役」の解説
プリツカーは、生涯で最も印象的な体験は、1973年10月にイスラエルで第四次中東戦争を直に目撃したことだったと語っている。 1974年2月8日にアメリカ陸軍に入隊し、ノースカロライナ州フォートブラッグの第82空挺師団第17騎兵連隊(英語版)第1中隊に配属され、軍曹まで昇進した。アメリカ陸軍では航空機修理部品係、ライフル銃兵(英語版)、班長を務めた。 1977年2月に兵役を完了した後、ロヨラ大学に入学した。大学では歴史学を専攻し、陸軍の予備役将校訓練課程に参加した。1979年5月に大学を卒業した。 大学卒業と同時に士官として陸軍に復帰し、ケンタッキー州フォート・キャンベルの第101空挺師団第503歩兵連隊(英語版)第1大隊に配属され、ライフル小隊やTOW小隊の小隊長を務め、その後、司令部や対機甲学校に勤務した。1984年から1985年まで、ドイツ・ケリー・バラックス(英語版)の第7軍団に参謀将校として勤務した後、1985年に退役した。その後、陸軍予備役兼イリノイ州兵として16年間在籍した後、2001年に退役した。最終階級は中佐だった。退役後、イリノイ州の名誉大佐となった。
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軍役
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「アルフレッド・ウォーデン」の記事における「軍役」の解説
陸軍士官学校を卒業した時点では、ウォーデンにはパイロットの経験は全くなかった。空軍士官学校では、1959年以前には士官候補生が卒業させていなかった。海軍兵学校と空軍士官学校の卒業生は、空軍に就役することを許可され、彼の教官の数人は、この過程を進むことを勧めた。彼は、昇進が早いと考えて空軍を選択したが、後に実際はそうではないことが分かった。 ウォーデンは、テキサス州のムーア空軍基地で初期の飛行訓練を受け、T-34練習機の操縦を学び、飛行機の操縦を好むようになった。さらに、テキサス州のラレド空軍基地でT-33の操縦を学び、8ヶ月後、フロリダ州のティンダル空軍基地で、航空宇宙防衛軍団の訓練でF-86Dに乗った。訓練後の初の配属先は、ワシントンD.C.近くのアンドルーズ空軍基地の第95飛行隊で、そこでF-86D、後にF-102に乗った。1957年3月から1961年5月までパイロットを務めた他、隊のarmament officerも務めた。 自身のキャリアと空軍の利益のため、ウォーデンは1961年にミシガン大学で航空宇宙工学を学んでくるように提案を受け、1963年にはミシガン大学で航空宇宙工学と計装工学の修士号を得た。 卒業後、ウォーデンはアメリカ空軍テストパイロット学校に応募したが、驚いたことに、選考されなかった。彼は、自身の上司が、イギリス空軍との交換プログラムの一環として、イギリスのファーンボローにある帝国テストパイロット学校で訓練を受けることを希望していると知った。その課程は6か月間始まらなかったため、その間は、ランドルフ空軍基地のInstrument Pilots Instructor Schoolで過ごした。クラス2番目の成績でファーンボローでの課程を終えた後、ウォーデンはアメリカ合衆国に戻り、空軍テストパイロット学校の教官となり、司令官であるチャック・イェーガー大佐からの特別な要請を受けて、1965年9月に卒業した。
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軍役
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「ブライアン・アークハート」の記事における「軍役」の解説
第二次世界大戦が勃発したときに陸軍に入隊し、短い訓練期間の後に、ドーセット連隊(英語版)に将校として配属された。所属する部隊が欧州大陸に展開する前にナチス・ドイツのフランス侵攻が終了し、バトル・オブ・ブリテンの間はドーバー海峡沿岸の防衛に当たった。その後、情報将校(英語版)として空挺師団に転属した。1942年8月、降下訓練中に重傷を負い、脊椎の下部の椎骨3個が損傷し、数本の骨が折れた。生涯に渡り体の自由が効かなくなる可能性があると警告され、病院で数か月かけてリハビリと体力の回復に努めた。 復帰後は、北アフリカと地中海の戦線に従軍した後、イギリスに戻ってオーヴァーロード作戦に伴う空挺作戦の計画立案に参加した。秋には、第1空挺軍団の情報将校として、マーケット・ガーデン作戦の計画立案を支援した。この作戦は、連合軍がドイツ北部へ進出する際に障害となるオランダ国内の複数の川を越えるために、空挺部隊を使用して橋を奪取するという野心的な作戦である。アークハートは、空からの偵察とオランダ国内のレジスタンス(英語版)から得られた情報から、この作戦には重大な欠陥があると確信し、上官に対し計画の中止または変更を説得しようとした。この一件は、コーネリアス・ライアンのマーケット・ガーデン作戦に関する著書『遙かなる橋』(A Bridge Too Far)で詳細に説明されている。この作戦は失敗し、その結果として多くの死傷者を出すことになり、アークハートの予測は正しかったことになるが、上官を説得して作戦を中止させることができなかったことに対してアークハートは深く落ち込み、空挺部隊からの転属希望を出した。 転属希望が叶い、ドイツの科学者や軍事技術の探索を担当する部隊であるT部隊(英語版)(T-Force)に配属された。アークハートはドイツの核科学者ヴィルヘルム・グロート(英語版)を捕らえた。 1945年4月、ベルゲン・ベルゼン強制収容所に連合軍関係者で最初に入った者の一人にアークハートもいた。この経験がきっかけとなり、戦後、国連での和平活動に参加するようになった。
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軍役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 11:14 UTC 版)
明暦元年(1655年)と推定される記録に、騎馬170騎、鉄砲350挺、弓60張、鑓150本、旗20本とする軍役規定があり「公儀御定也」とある。これは徳川家の譜代・旗本に対する寛永10年(1633年)軍役規定の10万石のものと同一であり、表高相当の幕府の軍役規定に準じていたことがわかる。 公儀軍役として、高田城請取(1681年)、飛州騒動(1773年)での出兵および蝦夷地出兵準備(1804-1818年)があり、戊辰戦争では新政府側に立って藩兵4小隊(158人)が加賀藩とともに越後長岡藩攻め(北越戦争)に参加した。
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