かいはつ‐りょうしゅ〔‐リヤウシユ〕【開発領主】
開発領主
開発領主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 09:33 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動開発領主(かいほつりょうしゅ/かいはつりょうしゅ)は、日本の荘園公領制において、田地を開発して領地を確保した者をいう。根本領主ともいう。
概要
天平15年(743年)の墾田永年私財法の施行以後、墾田に基づく土地私有者は広く発生した。もともと開発は田地を「ひらきおこす」という意味で、未開の原野の開墾だけでなく荒廃田の再開も含んだ。当初は、荒廃田を再開させた開発者には、期限つきで耕作権が認められるに過ぎなかったが、平安時代初期には終身の権利に発展したため、富豪農民(田堵)・郡司級土豪は積極的に開発を行い、国衙も官物の免除などの特典を与えて常に内外の開発者を募った。しかし荒廃田を再開しても国衙に収公されてしまう場合が多く、平安時代中期には条里外の未開原野を広く占めて開田する領主的開発が主流となった。
開発者は国衙に申請して開発を始める。まず開発拠点を設置して、開発費用を支出して労働力である内外の浪人や百姓を誘致した。開発者の家人・下人・従者は労働の監督にあたった。開発労働力の確保と並んで、池溝堰堤の建設・整備も行われた。開発された田地では、所領田畠とその農民に対する強力な進止権が国衙より公的に与えられた。国衙領(公領)において開発田は郡・郷・保・別名に編成され、郡司・郷司・保司・別名名主などの職に補任された開発領主は、開発田の勧農を中心とする所務、私的な雑役・夫役の徴収、検断権といった根本領主権を保証された。荘園内の開発でも事情は同じであり、開発領主は下司・公文などに任じられた。
開発領主は、権利の所在を明記した文書(公験)を大事に保管し、子孫代々伝世していった。しかし、国司が交代すると認可を取り消される可能性も高く、境界などを巡って他の開発領主などと紛争が起こることもたびたびあった。開発領主は国衙よりも権威のある中央の有力貴族や有力寺社へ開発田地を寄進して(寄進型荘園)、国衙の圧力を断ち切ることで支配権・管理権を確保していった。荘園寄進時に、開発領主は寄進先の荘園領主から荘官に任じられることが多く見られた。一方で、開発領主は在庁官人でもあり、国衙と結びつくのが有利な場合はそのまま国衙領にとどまった。
平安中期以降、中央政界からあぶれた源氏や平氏など武士身分の下級貴族―いわゆる軍事貴族が多数、地方へ下向してきたが、開発領主はそれらの軍事貴族と主従関係を結ぶことにより、荘園を巡る紛争解決に役立てようとした。そのため、武士となる開発領主も少なくなかった。鎌倉時代には、地頭や御家人に任じられる開発領主も現れた。
この表記は近代の造語ではなく古くから使われている。[1]
関連項目
開発領主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 02:10 UTC 版)
福田豊彦は「私営田領主」を「一口でいえば、広い土地を自分で直接経営する大土地所有者」とする。もちろん、「私営田領主」「私営田経営者」の説明がそれで済む訳ではないが、それに続く「開発領主」との対比においては、そのひとことが大きな特徴となる。安田元久らの学説では「武士」と「兵」の違いは「領地」の支配形態にもとめられた。つまり「武士」と呼べるのは、地方経済が「私営田経営」から「開発領主」の段階に移行してからだというのである。 福田豊彦によれば、後に鎌倉幕府の基盤となる「開発領主」は、「私営田経営(領主)」とは根本的に異なった所領経営の方法をとった。彼らは確かに、佃、手作(てづくり)、門田(かどた)などという直接耕作農地も持ってはいたが、大きな特徴は基本的には農業経営から離れ、農民から「加地子」を取る本格的な「領主」へと転化し始めることである。その時期は関東においては平忠常の乱が終わり、そこでの「亡国」といわれるほどの焦土戦による荒廃から、復興・再開発が始められた段階、つまり11世紀後半から12世紀初頭に相当する。 「開発領主」が生まれる過程は、その地の有力者が一族子弟のみならず、近隣の農民や諸国から流入した浮浪人などを組織して荒地の開拓を行い、その従事者を新しい村落に編成することに始まる。 そして、新しく開拓した地、そしてその村落は開拓した者の私領となる。私領といってもその地の課税が免除される訳ではないが、国衙は旧来の郡とは別の、新しい徴税単位として、特別な命令書により税を軽減し、開発領主の私領領有を認め、同時に開発領主がその地の納税義務を負うことになる。その特別な命令書(符)ということから、その地は「別符」と呼ばれ、また徴税単位として「郷」と呼ばれた。 別符による「郷」は、「郡」の下の「郷」ではなく、独立した徴税単位として「郡」と並列するものである。そうして律令制以来の郡・郷が、新しい郡・郷に再編されていく。 誰が開発領主となったのかと言えば、その領域そのものの法的所有、または国衙による開発の承認が重要なテコとなったため、自ら国衙の在庁官人となったか、あるいは国司と結びついた、留住から土着へと至った軍事貴族や前司の子弟など王臣子孫、そして一部の土豪だろう。信州から関東にかけての官牧、御牧の管理者、京の貴族の荘園の荘官として下向した者達がそこを基盤に周辺の開発を行うケースもあった。 ただし、地方の武士は、開発領主であることを経済的地盤としていたが、開発領主=武士であり、武士団を率いていた訳ではない。源平の争乱を生き抜き、少なくともその時期に武士となり、鎌倉時代に御家人、地頭となった者、一部の荘園の下司について以外に、後世に記録が残っていないことを考慮する必要がある。「国の兵共」が、「譜第図」や「胡簗注文」などの台帳に記載されるということ自体が、彼らが国衙支配下の開発領主達の中で特種な存在であったことを物語っている。
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開発領主と同じ種類の言葉
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