開発開始と発掘調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 14:57 UTC 版)
「港北ニュータウン遺跡群」の記事における「開発開始と発掘調査」の解説
港北ニュータウン建設予定地は、横浜市中心部から北北西約12km、東京都心部から南西約25kmに位置している。 1965年(昭和40年)、戦後日本に高度経済成長の波が押し寄せ、大都市横浜がさらなる膨張を開始する中、市域北部の里山地帯を、およそ30万人規模の住宅地に改造する「港北ニュータウン事業」計画が「横浜市六大事業」の一つとして当時の横浜市長・飛鳥田一雄の元で策定された。これによって、早渕川によって南北に分けられた丘陵地帯の、総面積2530ha(2530万㎡)もの土地が開発されることになった。起伏の激しい山谷を都市化する際は、丘陵を削り取ってその土砂で谷を埋め、平らに整地するという造成工事が行われる。その過程で地下に眠る遺跡(埋蔵文化財)の多くは、掘削による破壊を受けることになる。この未曾有の大規模開発から丘陵部に広がる268箇所の遺跡を、発掘調査して遺構(竪穴住居や古墳、貝塚など)の記録をとり、遺物(土器や石器など)を取り上げして保護する、「記録保存」という手段で守るために、1970年(昭和45年)に考古学者の岡本勇を団長とする遺跡調査会「横浜市埋蔵文化財調査委員会・港北ニュータウン埋蔵文化財調査団」が組織され、発掘が開始された。 横浜市内では、港北ニュータウン事業が本格始動する前の1960年代半ばから、すでに人口増加と都市拡大に伴う大規模な開発が各地域で始まっていたが、それに対する埋蔵文化財保護活動(発掘調査)も組織的に始められていた。 港北ニュータウンに隣接する地域でも、たとえば緑区(現在は青葉区)市ケ尾町で、1966年(昭和41年)の東急田園都市線開通にあわせて地域が開発されるにあたり、朝光寺原遺跡・朝光寺原古墳群・稲荷前古墳群などの重要遺跡が考古学研究者や研究機関によって発掘調査されていた。しかしこれら1960年代の発掘調査は、開発工事に先立って実施されたが、調査団体は遺跡の規模に対して充分な調査期間や費用・作業員数・資材などを確保できず、日々急ピッチで進行する開発工事に追いかけられることがしばしばで、辛うじて調査を終えるか、不十分なままで終えざるをえないか、最悪は未調査のまま遺跡を破壊されてしまうという事態が起こっていた。朝光寺原遺跡・朝光寺原古墳群・稲荷前古墳群では、迫り来る開発工事に追われ、調査が悲惨を極めたことが報告されている。また、同時期(1969年〈昭和44年〉~1973年〈昭和48年〉)に行われていた横浜市南部の港南区港南台遺跡群の発掘調査でも、過酷な状況であったことが報告されている。 このような1960年代までの経験値の蓄積により、1970年代に入ると調査組織や考古学研究者らは、発掘調査にあたって遺跡規模に対してどのくらいの費用と人数・資材や調査期間が見込まれるか、おおよその概算を作れるようになりつつあった。しかし当時の横浜は、社会全体が遺跡保護より都市開発推進を優先する風潮であったため、開発側から当初求められた調査条件は、200を超える遺跡の調査を4億円の予算で3年以内で完了させるというものであった。これは現代の遺跡調査業界の常識から見れば有り得ない設計額だったとされており、実際、最終的にすべての遺跡調査が完了したのは約20年後の1989年(平成元年)6月で、調査総額は18億円に上った。 また本来、記録保存を目的とした発掘調査は、遺跡現地での掘削・遺構検出・遺構や遺物の出土状況の記録(測量)・写真撮影・遺物取上げを行っただけでは完了とはならず、その後に図面整理・遺物の接合と復元・遺物の実測図作成・遺構の図面作成・写真撮影・本文執筆といった「整理作業」を経て編集される発掘調査報告書の刊行をもって完了するのであるが、港北ニュータウン遺跡群の調査の場合、急ピッチで進む工事に対応するため、ある遺跡の発掘現場が終わると、その遺跡の整理作業と報告書作りを後回しにして、ただちに別の遺跡の発掘調査に取りかかり、それが次から次へと連面と続くという状況になっていった。 1989年(平成元年)に全遺跡調査が完了した頃には、約2万箱の出土遺物と2万枚の調査図面、25万枚にのぼる記録写真等が残された。
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