開発領主の位置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/21 08:48 UTC 版)
この事件は、当時における在庁官人=開発領主の変貌と、国司=目代との対立の激しさ、特に在地領主層の弱体と限界を如実に示している。まず開発領主の領地領有とは、郡司、郷司という、役職において国衙から保証されたものだということ。しかしそれが、郡司、郷司という役職において保証されたものである限り、国司側はその任を解く権限を持っており、それは相馬郡において現実に行使された。更にその周囲には他の開発領主が隙あらばと狙っている。 最初の段階では同族の上総常澄、そして源義朝である。そして後には平家の権力を背景に、佐竹氏がその争奪戦に加わった。安定な状態をさらに確実なものにしようと荘園の寄進を行うが、その段階で、自分の直接支配地だけでなく、郷の単位ほどの周辺の公領も切り取って規模を拡大して立荘する。それは、根本私領だけでなく、郡司としての自分の支配、取り分を固定化しようとする行為と考えると解しやすい。 しかしその荘園寄進も、それだけで確実なものではないことは、この相馬御厨、そして大庭御厨の事件の中からも見てとれる。相馬御厨も大庭御厨も、本所の伊勢神宮は必ずしも下司となった寄進主(開発領主)を保護しきれなかった、自分の取り分が確保され、更には増えるのなら、下司職が源義朝でも千葉常胤でも構わなかったということである。
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