開発黎明期 - 自然主義と捷水路主義
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「石狩川」の記事における「開発黎明期 - 自然主義と捷水路主義」の解説
1898年(明治31年)9月、石狩川流域において、開拓事業着手後としては最悪の洪水 (明治31年洪水) が発生した。この時の浸水面積は上流部では空知川合流点より、下流では石狩湾までの平地、およそ150,000haが浸水し112名が死亡した。事態を重く見た当時の河川管理者である内務省は翌月には北海道治水調査会を設けて石狩川の治水の方向性を探り、治水計画を策定した後、翌1899年(明治32年)より『第一期北海道拓殖計画』に基づいた石狩川の治水事業に着手した。 この石狩川治水事業の中心的役割を果たしたのが岡崎文吉である。岡崎は石狩川の水位調査を行う一方で欧米諸国の河川工事・管理状況を視察。その中でアメリカ方式の自然を生かした治水方法を石狩川に採用することとした。これは岡崎の「自然主義」と呼ばれ、現在千歳川で見られるヨーロッパ型の河川整備に通ずるものがある。大規模な人為的改変を加えず、水防林や堤防整備・護岸補強を行うことで自然を最大限残しながら治水事業を行うことを理想とした。また、洪水時の水位を下げるために放水路を建設し、洪水調節を図ろうとした。 1910年(明治43年)石狩川治水事務所が設置され、『石狩川第一期治水工事事業』がスタートした。岡崎は事務所長として自身の理念に沿った形で河川改修を始めた。最初に取り掛かったのは生振と篠路を結ぶ放水路事業であった。この際も石狩川本川には可能な限り手を触れず、放水路による洪水調節を目指したが予想を超える泥炭地が工事の行く手を遮り、難工事と財政難に悩まされるようになった。難航を極めた治水事業を促進させるために1917年(大正6年)に内務技官・沖野忠雄が派遣されるも、これが岡崎の「自然主義」治水事業を転換させる契機となった。 沖野は1897年(明治30年)より実施された『淀川修築工事』の総指揮を執った人物で、新淀川開鑿や大阪港築港などのプロジェクトを手掛けた当時河川工学分野での第一人者であった。だが沖野の治水思想は河川に対し大規模な改修を加え、治水に供するフランス流河川工学であり、その根幹となるのは新淀川開鑿でもみられた河川ショートカット工法(捷水路)であった。この沖野の「捷水路主義」は当然岡崎の「自然主義」とは相容れず、両者は真っ向から対立することとなる。だが実績に勝る沖野の手法が採用されることになり、1918年(大正7年)岡崎は石狩川治水事務所長の職を退任。沖野が所長職に就任することで石狩川の治水は「捷水路主義」に基づく河川改修にシフトしていった。 1922年(大正11年)従前は千歳川に合流していた夕張川を石狩川に直接合流させる「夕張川新水路工事」が始まり、1936年(昭和11年)に完成した。これにより蛇行していた夕張川は直線化され、従来の河道は旧夕張川となった。石狩川本川では石狩川河口から江別までの区間における捷水路工事を実施し、下流部の直線化を図った。また札幌市内を細かく蛇行しながら貫流していた豊平川も捷水路を設置して直線化した。続いて1934年(昭和9年)より実施された『石狩川第二期治水工事事業』においては幌向川に合流していた幾春別川を、夕張川と同様に直接石狩川に合流させる「幾春別川新水路工事」を開始。1921年(大正10年)より実施した「美唄川新水路工事」と共に三笠市・岩見沢市の治水を図った。石狩川本川の捷水路工事は江別から月形、さらに上流へ向けて堤防整備と共に実施されたが太平洋戦争によって中断された。 この沖野による捷水路工事主体の河川改修により、石狩川本川は改修前には364km(信濃川とほぼ同延長)あった流路延長が100kmも短くなり、蛇行部分は大幅に減少した。これによって洪水の流下が促進され、洪水による湛水被害は大幅に軽減。泥炭地の湛水が解消されたことで、その後の大規模開拓に繋がる農地開発が次第に手掛けられていった。
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