開皇の治・文帝の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 08:55 UTC 版)
前後して、文帝は即位した直後から内政面についても次々と改革を打ち出した。 「隋#政治」も参照 『周礼』と鮮卑回帰政策を進めた北周の路線を改めて、北斉の制度も参照しつつ改革を行った。581年には新たな律令である開皇律令を制定した。この律令は晒し首・車折などの残酷な刑罰を廃し、律を簡素化してわかりやすく改めたものであり、後の唐律令はほぼこの開皇律令を踏襲したものである。官制にも大改革を加え、最高機関として尚書省・門下省・内史省(唐の中書省)の3つを置き、尚書省の下に文書行政機関である六部、即ち人事担当の吏部・財政担当の度支部・儀礼担当の礼部・軍政担当の兵部・法務担当の都官部・土木担当の工部の6つを設けた。その下に実務機関である九寺、またこれとは別に監察機関である御史台を置いた。地方についてもそれまでの州>郡>県という区分を止めて、州>県の2段階に再編を行った。そして文帝の治績の最大のものとして称えられるのが、科挙(正式には貢挙)の実行である。南北朝時代では九品官人法により、官吏の任命権が貴族勢力の手に握られていた。科挙は地方豪族の世襲的任官でなく実力試験の結果によって官吏の任用を決定するという極めて開明的な手段であり、これを持って官吏任命権を皇帝の元へ取り返すことを狙ったのである。このように文帝によって整備された諸制度はほとんどが後に唐に受け継がれ、唐朝274年の礎となった。これらの文帝の治世をその元号を取って開皇の治と呼ぶ。 文帝の皇后の独孤伽羅は非常に我の強い女性で、文帝に対して「自分以外の女性と子供を作らない」と誓約させていた。これは当時の皇帝としては極めて異例なことであり、しかも独孤皇后は文帝の周囲を厳しく監視し、文帝がほかの女性に近付くことを警戒していた。文帝と独孤皇后の間には6人の子がおり、その長男の楊勇が初め皇太子に立てられていたが、楊勇は派手好みで女好きであり、質素を好む文帝・貞操を重視する皇后の両者から嫌われ、それに代わって両親の気に入るように振舞っていた次男の楊広が皇太子に立てられる。 604年、文帝は病に倒れた。この病床の間に楊広の本性を知った文帝は激怒して廃太子にした長男楊勇を再び太子にしようとした。しかしそれが叶う直前に文帝は崩御した。病死ともいわれているが、楊広に先手を打たれて右庶子の張衡に殺害されたともいわれる。
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