遺物の出土状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 23:26 UTC 版)
「浅間山古墳 (栄町)」の記事における「遺物の出土状況」の解説
浅間山古墳の出土品検出状況はかなり特徴的である。まず羨道の天井石上から鉄製の小札、大刀の破片、鉄製の馬具の破片などがまとまって出土した。これは羨道部の天井石上にあった杉の木の、根の部分から出土したものである。天井石上からまとまって出土したことから埋葬時に置かれた可能性も残るが、破片が出土していることから、前庭部にあった遺物が杉根の伸長によって羨道部の天井石上まで移動したとの見方が有力である。 浅間山古墳での出土品の検出状況で最も特徴的なのは、羨道前の前庭部から大量の遺物が検出されたことである。前庭部の遺物は、大きく分けて前庭部に堆積した土砂の上部と下部の二層に分かれて出土している。前庭部に堆積した土砂の上部からは鉄製馬具の破片、大刀破片などが検出され、これは平安時代に行われたと考えられる盗掘時に、石室内から持ち出された遺物の破片であると考えられている。前庭部に続く羨道に堆積した土砂の上部からは、盗掘時に用いられたと見られる平安時代中期の灯明皿が出土している。灯明皿が検出された付近からは特に大量の遺物の破片が見つかっており、盗掘者が遺物の選別を行った可能性が指摘されている。 前庭部に堆積した土砂の下部からも大量の遺物が出土した。検出された副葬品の多くは鉄製小札であるが、その他にも金銅製馬具、銀製の飾り金具、耳環、鉄製馬具、鉄鏃など、浅間山古墳で発掘された主要な出土品のうち、冠類以外はほぼ全て前庭部から出土している。この前庭部下層の出土品は、出土状況から見て平安時代の盗掘者によって持ち出されたものとは考えにくく、埋葬時からあまり時間を置かない時期に石室内から持ち出されたものと考えられるが、もともと初葬時から前庭部に埋葬された可能性を指摘する研究者もいる。また前庭部からは、7世紀中ごろから後半にかけて東海地方で作られた須恵器が見つかっている。須恵器については他の遺物と異なり、埋葬当初から発掘された場所に置かれていたものと考えられている。なお、羨道に堆積した土砂の下部からはわずかな遺物しか検出されなかった。 前室からは主に床石とその直上部から遺物が発掘されている。金銅製馬具、鉄製馬具、金銅製の透かし彫り金具、鉄製小札などの他に、釘と漆膜が検出されており、前室には漆塗りの木棺が安置されていたと考えられている。前室内の遺物の中で、奥に近い場所から検出された金銅製馬具などは埋葬当初の場所から動かされていない可能性が高いが、その他の遺物は埋葬当初に安置された場所から動かされていると考えられている。これは価値が高い金銅製品が多く残されていることなどから盗掘者が動かしたものとは考えにくく、やはり埋葬後ほどなく移動されたものと考えられている。また前室に堆積した土砂の下層には石材類の破片などが含まれていて、人為的に埋められた可能性が高い。なお人為的な石室内の埋め立ては後室でも確認できる。 後室も発掘当時土砂が堆積していた。後室は盗掘者の撹乱の跡が確認されず、盗掘の影響をあまり受けなかったものと考えられる。奥室内に堆積した土砂の多くは、石棺埋葬後に後室内に運び込まれた土砂であると考えられている。遺物は堆積した土砂の上層と下層の2層に集中していた。上層からは大刀、金銅製の刀装具などが検出された。堆積した土砂の下層からは金装の飾り弓、耳輪などの他に金銅製冠飾と銀製の冠が出土した。 浅間山古墳では平安時代の盗掘以降、石室内に人が立ち入った形跡はない。平安時代の盗掘では後室は比較的影響を受けず、冠類など多くの貴重な遺物が発掘されたが、埋葬当初に安置された場所から副葬品が大きく移動された形跡がある。また石室内を土砂で埋めるという行為がなされたと考えられ、更には盗掘時の撹乱のため、発掘された副葬品の評価を困難にしている。 なお、墳丘からは埴輪、葺石は検出されず、埴輪がないことからも浅間山古墳は前方後円墳最終期の古墳であると考えられている。
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