平安時代中期
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安倍晴明以後、安倍氏が賀茂氏とともに陰陽道ことに天文道を司った。しかし、官位的には晴明も息子吉平(954年 - 1027年)も極位が従四位上であって、先祖である兄雄と比べれば格下であるのは明白である。その後、吉平の長男時親は天文密奏宣旨授与者、次男章親は天文博士、3男奉親は天文権博士と、天文道に関する地位を独占した。以後、代々天文博士・陰陽頭に任じられたが、その一方でその地位や学説を巡る一族間の対立も激化していき、時親の子有行を祖とし孫の泰親に引き継がれた嫡流にあたる家系(俗に「泰親流」)、同じく時親の子国随を祖とし孫の晴道に引き継がれた家系(同じく「晴道党」)、時親の弟奉親を祖とし孫の宗明およびその子広賢引き継がれた家系(同じく「宗明流」)の3系統に分立して激しく争った。
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平安時代中期
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平安時代の寺院は国の管理下にあり、浄土思想は主に京都の貴族の信仰であった。また、(官)僧は現代で言う公務員であった。官僧は制約も多く、国家のために仕事に専念するしかなかった。そのような制約により、庶民の救済ができない状況に嫌気が差して官僧を辞し、個人的に教化活動する「私得僧」が現れるようになる。また大寺院に所属しない名僧を「聖」(ひじり)という。 空也 空也(903年-972年)は、念仏を唱えながら各地で道を作り、橋を架けるなど社会事業に従事しながら諸国を遊行する。同時に庶民に対し精力的に教化を行い、庶民の願いや悩みを聞き入れ、阿弥陀信仰と念仏の普及に尽力する。空也は、「市聖」(いちひじり)・「阿弥陀聖」と呼ばれる。空也は踊念仏の実質的な創始者でもある。 源信 源信 (942年-1017年)は、良源の弟子のひとりで、985年に『往生要集』を著し、日本人の浄土観・地獄観に影響を与えた。 『往生要集』は、阿弥陀如来を観相する法と極楽浄土への往生の具体的な方法を論じた、念仏思想の基礎とも言える。内容は実践的で非常に解りやすいもので、絵解きによって広く庶民にも広められた。同書は「観想念仏」を重視したものの、一般民衆のための「称名念仏」を認知させたことは、後の「称名念仏」重視とする教えに多大な影響を与え、後の浄土教の発展に重要な意味を持つ書となる。 986年には比叡山に「二十五三昧合」という結社が作られ、ここで源信は指導的立場に立ち、毎月1回の念仏三昧を行った。結集した人々は互いに契りを交わし、臨終の際には来迎を念じて往生を助けたという。 源信は、天台宗の僧であったが世俗化しつつあった叡山の中心から離れて修学・修行した。 慶滋保胤 平安時代中期の文人で中級貴族でもあった慶滋保胤(931年頃 - 1002年)は、僧俗合同の法会である「勧学会」(かんがくえ)を催す。また、浄土信仰によって極楽往生を遂げたと言われる人々の伝記を集めた『日本往生極楽記』を著す。後には、『日本往生極楽記』の編集方法を踏襲した『続本朝往生伝』(大江匡房)・『拾遺往生伝』(三善爲康)・『三外往生伝』(沙弥蓮祥)など著される。 この様に具体的な実例をもって浄土往生を説く方法は、庶民への浄土教普及に非常に有効であった。そして中・下級貴族の間に浄土教が広く普及していくに従い、上級貴族である藤原氏もその影響を受け、現世の栄華を来世にまでという思いから、浄土教を信仰し始めたものと考えられる。 こうして日本の仏教は国家管理の旧仏教から、民衆を救済の対象とする大衆仏教への転換期を迎える。
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