堂上家
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堂上家(とうしょうけ、どうじょうけ)は、公家の家格の一つ。御所の清涼殿南廂にある殿上間(てんじょうのま)に昇殿する資格を世襲した家柄。また、公卿になれる家柄。同時に上級貴族とも呼ばれる。
- ^ 米田雄介. "堂上家". 世界大百科事典〈改訂新版〉. コトバンクより2024年4月27日閲覧。“しだいに昇殿をゆるされる家柄が固定した。摂家・清華・大臣家や羽林家・名家などの家格のものがそれに当たるが,前3家を除いて平堂上家(ひらとうしようけ)ということもある。”
- ^ 中納言をいったん辞任することなく、そのまま大納言に任ぜられることを「直任」といい、中納言を辞職してから大納言に任ぜられるより格上とされた。「宣任の例が多い」は、一度でも「直任」の例があることを指す(浅見雅男『華族誕生』参照)。
- ^ a b c d e 藤氏長者、勧学院別当
- ^ 五摂家筆頭 陽明家と称す
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap 『公卿諸家系図』
- ^ 桃華坊と称す
- ^ 別称轉法輪家
- ^ a b 源氏長者、淳和院・奨学院両別当
- ^ 蔵米参照
- ^ 園池公屋が正親町三条実昭の猶子となったため、閑院流正親町三条庶流となった。
- ^ 藤原北家閑院流西園寺庶流の四辻公遠の子・四辻嗣良が高倉範久の嗣子となり、高倉家を再興し、寛永14年(1637年)に高倉から藪に改姓した。以後、室町(四辻)家の血統により、室町流を称する。庶流に中園家・高丘家がある。この南家高倉流は、閑院家に従属している。
- ^ a b c d e 五堂上家[要出典](「道隆の系譜から5家の堂上家が生まれた」という趣旨で「道隆流から五堂上家が出た」という例はあるが、「五堂上家」という成語は確認し得ない。)
- ^ 高倉永家の子・堀河親具は当初、水無瀬親氏の養子となっていたが、後に養父に実子が生まれ、疎んじられて家を追われたために出家し、東国の徳川家康に
寄寓 ()した。天正13年(1585年)、家康が上洛した際に親具もこれに従って帰京し、家康の計らいで親具に堀河の家号が与えられて新家創設が許されたが、親具が出家していたために、代わって長男の堀河康胤に継がせて堀河家を興させた。後に次男の樋口信孝が樋口家を創設した。血統上は高倉系であるが、水無瀬系庶流扱いとなる。 - ^ 是定(王氏長者)
- ^ 他に神祇領・神事料100石
- ^ これは官職ではなく吉田兼倶が用い始めた
僭称 ()である。 - ^ 弘化4年12月17日(1848年1月22日)に地下家から格上となった。俊常が六位蔵人の
極﨟 ()(最先任)を祖父から三代続けて勤めたことによる。なお、分家の北小路家は俊矩の代に半家に格上げされるものの、堂上昇進が遅れたため男爵にしかなれなかった。
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