今城家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/09 06:16 UTC 版)
今城家 | |
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本姓 | 藤原北家花山院流中山庶流 |
家祖 | 冷泉為親 |
種別 |
公家(羽林家) 華族(子爵) |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 |
山城国 東京府 |
著名な人物 | 今城定政 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
今城家(いまきけ)は、藤原北家花山院流の公家・華族である。公家としての家格は羽林家、華族としての家格は子爵家。
概要
権大納言・中山親綱の二男為親は、上冷泉家の当主為満が天正13年(1585年)に勅勘を受けて京を出奔したため、上冷泉家の存続のため養子として迎えられた。しかし慶長3年(1599年)に為満が赦されて帰京し、上冷泉家に復帰したため、為親は別に一家を興すことが許され、冷泉または中山冷泉家(なかやまれいぜい)の家号を称した。
江戸時代前期の権中納言冷泉為尚の息子今城定淳(冷泉為継)が家名を今城と改め、名を定淳とした[1]。彼を祖とするのが一般的だが、前身の中山冷泉家を始まりとすることがある[1]。江戸時代の石高は181石。家職は和歌・有職故実。明治維新後は、定徳が子爵に叙せられた[1]。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
中山親綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||
慶親 〔中山家〕 | 冷泉為親 | ||||||||||||||||||||||||||||||
為尚 | |||||||||||||||||||||||||||||||
今城定淳1 (冷泉為継) | |||||||||||||||||||||||||||||||
定経2 | |||||||||||||||||||||||||||||||
定種3 | |||||||||||||||||||||||||||||||
定興4 | |||||||||||||||||||||||||||||||
定泰5 | 定成 | ||||||||||||||||||||||||||||||
定成6 | |||||||||||||||||||||||||||||||
定光 | 定章7[2] | 岩倉具賢 | 千種有文 | ||||||||||||||||||||||||||||
定国8 | |||||||||||||||||||||||||||||||
定時 | 定徳9 | ||||||||||||||||||||||||||||||
定政10[3] | |||||||||||||||||||||||||||||||
誼子 | 定順 | 政典11 | 政英 | ||||||||||||||||||||||||||||
幕末の領地
国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の今城家領は以下の通り。(4村・181石余)
脚注
参考
- 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年(平成22年)。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年(平成8年)。
- 近藤敏喬編『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年(平成6年)。
- 今城家のページへのリンク