中冷泉家(中山冷泉家 → 今城家)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:49 UTC 版)
「冷泉家」の記事における「中冷泉家(中山冷泉家 → 今城家)」の解説
この冷泉家は上冷泉家・下冷泉家にたいして、中冷泉家ともよばれた。中山親綱の子・為親は、上冷泉家の当主・為満が天正13年(1585年)に勅勘を受けて京を出奔した後、空位となった上冷泉家の新しい当主として迎えられたが、慶長3年(1599年)に為満が勅勘を解除され、上冷泉家に復帰すると、為親は当主の座を失う事になった。代償として為親は新たに一家を興す事を認められ、中山冷泉(なかやまれいぜい)の家号を称した。為親の跡は為尚、為継と継承されたが、為継は新たに今城定淳と改名し、以後この家系は「今城家」として存続していく事になる。門流もそれまで属していた御子左流を離れ、為親の父・親綱の中山家が属する花山院流に移った。家格は羽林家である。 中山冷泉家は今城家の前身と捉える事もできるため、中山冷泉為親・為尚父子もそれぞれ「今城為親」「今城為尚」と呼ばれる事があるが、実際に「今城」を称するようになったのは為尚の子・定淳(為継)の代からである。
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