中共軍の介入
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第6師団は北上して敵の抵抗を排して熙川を攻略した。10月24日、金鐘五は第19連隊に熙川を確保させ、第7連隊を楚山、第2連隊は温井を経由して碧潼に突進させた。このため第6師団は南北90キロメートル、東西50キロメートルに分散していた。また10月中旬に中共軍が密かに鴨緑江を渡り朝鮮半島に侵入しており、北上する国連軍を待ち構えていた。中共軍は道路に部隊を配置せず、第7連隊をわざと通過させてから退路を遮断し後続の第2連隊を包囲した。 第7連隊の先鋒隊は楚山に達して鴨緑江一番乗りを果たしたが退路を遮断されており包囲された第2連隊と第7連隊は壊乱した。この混乱時、金鐘五は車両事故により負傷入院しており第6師団長は張都暎准将が就任した。 1950年10月31日、第9師団長。 1951年1月13日、第1軍団参謀長(同年1月26日まで)。同年3月17日、第3師団長。第3師団は第3軍団右翼の徳積里‐加里峰の線を防御していた。 5月15日、北朝鮮軍と中共軍は五月攻勢をかけた。第3師団は北朝鮮軍第5軍団と交戦、数度の攻撃を撃退したが16日午後、右翼の首都師団第1連隊の主抵抗線が突破されてから状況が悪化し陣地の一部が突破されたが地形を利用して主抵抗線を防御した。しかし左翼の第7師団、第9師団の状況と後退路上の五山峠が遮断されたとの報告を受けると敵の包囲を憂慮して後退した。 第3軍団は第3師団と第9師団を共同させて五山峠を突破した後、後退する計画を立案した。しかし両師団の堅密な連携と統制が不十分であった。このため中共軍の攻撃で混乱が生じ、師団の統制が不可能な状況であり一部の部隊は無断で無秩序に後退した。 5月18日、金鐘五は突破は不可能と判断すると、攻撃を中止して芳台山を経由して蒼村に後退するよう命じた。しかし中共軍の追撃で多くの部隊が分散した。五月攻勢が収束した後、人事局長。 1952年5月、第9師団長。9月1日、任少将。10月6日、中共軍第38軍が鉄原北方の395高地を攻撃した(白馬高地の戦い)。 第9師団は強力な砲兵及び航空火力の支援を受けながら14日間、第38軍と14回に亘る争奪戦を繰り返し頂上の主が7回入れ替わる程の激戦を繰り広げた。金鐘五は適時、適切な予備隊の投入及び部隊交代によって将兵に活力を与え目標奪取のための士気を堅持した。 激戦の末、395高地を確保した。第9師団は約3500人の死傷者を出し中共軍は約1万人余が戦死傷又は捕虜となったと推計された。この時の功績で殊勲十字章を授与された。 1952年11月、陸軍士官学校校長。
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