中共軍の介入とは? わかりやすく解説

中共軍の介入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 08:39 UTC 版)

金鐘五」の記事における「中共軍の介入」の解説

第6師団北上して敵の抵抗排して熙川攻略した10月24日金鐘五は第19連隊熙川確保させ、第7連隊楚山第2連隊温井経由して碧潼突進させた。このため第6師団南北90キロメートル東西50キロメートル分散していた。また10月中旬中共軍密かに鴨緑江渡り朝鮮半島侵入しており、北上する国連軍待ち構えていた。中共軍道路部隊配置せず、第7連隊をわざと通過させてから退路遮断し後続第2連隊包囲した。 第7連隊先鋒隊は楚山達して鴨緑江一番乗り果たした退路遮断されており包囲され第2連隊と第7連隊壊乱した。この混乱時、金鐘五車両事故により負傷入院しており第6師団長は張都暎准将就任した1950年10月31日第9師団長。 1951年1月13日第1軍団参謀長同年1月26日まで)。同年3月17日第3師団長。第3師団第3軍団右翼の徳積里‐加里峰の線を防御していた。 5月15日北朝鮮軍中共軍五月攻勢をかけた。第3師団北朝鮮軍第5軍団交戦数度攻撃撃退した16日午後右翼首都師団第1連隊の主抵抗線突破されてから状況悪化し陣地一部突破されたが地形利用して抵抗線防御した。しかし左翼第7師団第9師団状況後退路上五山峠が遮断されたとの報告を受けると敵の包囲憂慮して後退した第3軍団第3師団第9師団共同させて五山峠を突破した後、後退する計画立案した。しかし両師団の堅密な連携統制が不十分であったこのため中共軍攻撃混乱生じ師団統制不可能な状況であり一部部隊無断無秩序に後退した5月18日金鐘五突破不可能と判断すると、攻撃中止して台山経由して後退するよう命じた。しかし中共軍追撃多く部隊分散した五月攻勢収束した後、人事局長。 1952年5月第9師団長。9月1日、任少将10月6日中共軍38軍が鉄原北方395高地攻撃した白馬高地の戦い)。 第9師団強力な砲兵及び航空火力支援を受けながら14日間、第38軍と14回に亘る争奪戦繰り返し頂上の主が7回入れ替わる程の激戦繰り広げた金鐘五適時適切な予備隊の投入及び部隊交代によって将兵活力与え目標奪取のための士気堅持した。 激戦の末、395高地確保した第9師団は約3500人の死傷者出し中共軍は約1万人余が戦死傷又は捕虜となった推計された。この時の功績殊勲十字章授与された。 1952年11月陸軍士官学校校長

※この「中共軍の介入」の解説は、「金鐘五」の解説の一部です。
「中共軍の介入」を含む「金鐘五」の記事については、「金鐘五」の概要を参照ください。

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