ご‐さん【五山】
ござん 【五山】
五山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/23 07:10 UTC 版)
五山(ござん)とは
- 天竺五精舎 - 釈迦存命中の五つの精舎のこと
- 五山制度(ござんせいど)とは、中国・日本における仏教寺格の一つ。日本においては、主に臨済宗の制度であった。上位より、五山・十刹・諸山・林下に区分された。
- 日本画五山(にほんがござん)とは、東山魁夷、杉山寧、加山又造、高山辰雄、平山郁夫の5人の日本画家の総称。
以下、2.について記す。
仏教において
もとは南宋の寧宗がインドの5精舎10塔所(天竺五精舎)の故事に倣って、径山・霊隠・天童・浄慈・育王の5寺を「五山」として保護を与えたのが由来と言われている[1]。
鎌倉時代後期には日本にも禅宗の普及に伴って広まるようになり、正安元年(1299年)には鎌倉幕府執権北条貞時が浄智寺を「五山」とするように命じたのが日本における最古と伝わる。
中国の五山
南宋時代に、政府が特別の保護を与え管理するために設けられた、禅宗寺院で最高の寺格を示す5つの官寺[2]。政府が住持を任命し、官寺の最上位として、十刹の上位に位置する[2]。
官僚社会と接近した禅林は、一般社会の官僚機構を禅林運営に導入して官寺制度を確立するため、大慧宗杲に帰依した南宋の政治家
五山の選定は、仏陀が長く留まったインドの五精舎(天竺五精舎、天竺五山)、および十塔所に倣うともいうが、臨安を中心とする漢族文明の強化を望んで、人の五体や五臓をモデルとする風水思想の成果であるとの考え方もある[4][5]
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径山 興聖 万寿寺[2] ー 浙江省杭州市余杭区 径山鎮 - 北山景徳
霊隠寺 [2] ー 浙江省杭州市西湖区 太白山麓 -
太白山 天童景徳寺[2] ー 浙江省寧波市鄞州区 - 南山
浄慈 報恩光孝寺[2] ー 浙江省杭州市西湖区 西湖湖畔 南屏山 -
阿育王山 広利寺 [2] ー 浙江省寧波市鄞州区 太白山麓
京都五山と鎌倉五山
鎌倉時代
鎌倉幕府の五山制度については詳細は明らかではないものの、鎌倉の建長寺・円覚寺・寿福寺及び京都の建仁寺の4ヶ寺が「五山」に含まれていたと考えられている。同様に後醍醐天皇の建武の新政においても「五山」が制定され、南禅寺と大徳寺の両寺が五山の筆頭とされ、東福寺と建仁寺が含まれていた。
室町時代
五山 | ||
---|---|---|
別格上位 南禅寺 | ||
京都 | 鎌倉 | |
第一位 | 天龍寺 | 建長寺 |
第二位 | 相国寺 | 円覚寺 |
第三位 | 建仁寺 | 寿福寺 |
第四位 | 東福寺 | 浄智寺 |
第五位 | 万寿寺 | 浄妙寺 |
その後、室町幕府を開いた足利尊氏は、天竜寺を建立したが、天竜寺を五山に加えることを望んだ。これに対して北朝は暦応4年(1341年)に院宣を出して尊氏に五山の決定を一任した。これに応えて同年に尊氏は第一位に南禅寺(京都)・建長寺(鎌倉)、第二位に天竜寺(京都)・円覚寺(鎌倉)、第三位に寿福寺(鎌倉)・第四位に建仁寺(京都)・第五位に東福寺(京都)・准五山(次席)に浄智寺(鎌倉)を選定した。これ以後、五山の決定及びその住持の任免権は足利将軍個人に帰するという慣例が成立することになる。その後、延文3年(1358年)に2代将軍足利義詮がこれを改訂して浄智寺を第五位に昇格させるとともに同じく第五位に鎌倉から浄妙寺、京都からは万寿寺を加えて計4寺として京都と鎌倉からそれぞれ5寺ずつが五山に選ばれた。その後、3代将軍足利義満の時代に管領細川頼之の要望を聞き入れて臨川寺を五山に加える(永和3年(1377年)- 康暦元年(1379年))が、康暦の政変で頼之が失脚すると外された。ところが、義満が足利将軍家の菩提寺として相国寺を建立すると、至徳3年7月10日(1386年)に義堂周信・絶海中津らの意見を容れて五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」として全ての禅林の最高位とする代わりに相国寺を「五山」に入れ、更に五山を京都五山と鎌倉五山に分割した。両五山はこの格式で固定し、現在に至っている。
出典
- ^ 宇井伯寿 編『仏教辞』東成出版社、1953年、ゴサン。doi:10.11501/2981104。
- ^ a b c d e f g h コトバンク「五山」ニッポニカ.
- ^ コトバンク「五山」マイペディア.
- ^ a b c 岩波仏教辞典 1989, p. 269.
- ^ コトバンク「五山・十刹・諸山」世界大百科事典.
参考文献
- 中村元他『岩波仏教辞典』岩波書店、1989年。ISBN 4-00-080072-8。
- "五山". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2021年7月17日閲覧。
- "五山". 百科事典マイペディア. コトバンクより2021年7月17日閲覧。
- "五山・十刹・諸山". 世界大百科事典 第2版). コトバンクより2021年7月17日閲覧。
関連項目
五山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 01:31 UTC 版)
黄海の中央にある崇山(「崇高」「中岳」「中山」とも呼ばれる)と、その周囲にある蓬山、崋山、霍山、恒山の総称。女神の長である西王母が治める天界に属する領域。蓬山は崇山の東に位置し、東岳あるいは東山とも呼ばれる。崋山は西、恒山は北、霍山は南にあるが、霍山と恒山は黄海の中心から西に寄っている。五山には周囲の黄海に住む妖魔・妖獣は侵入できない。西王母ら神仙達を憚って山を飛び越えようとする者はいない。天帝の山である崇山と西王母が主とされる蓬山以外の山の主は諸説あって判然としない。 崇山は自力昇仙した仙の修行の場である。ここでの修行を終えた後、天仙たちは蓬山などに配属される。 五山の一つ、蓬山には女仙を束ねる天仙である碧霞玄君・玉葉が居を構え、事実上人界と天界との橋渡し役となっている。また蓬山は神獣麒麟が生まれ、育てられる場所としても知られる。それらの事から、蓬山のみ人間が立ち入ることを許している。蓬山には麒麟以外には女仙しかいないため、蓬山にいる男性と子供は必然的に麒麟だけなので「蓬山に小さき者は麒麟のみ」と言われている。なお、「蓬山」は元々「泰山」と呼ばれていたが、戴国の王が覿面の罪を犯したことにより戴国の国氏が代から泰に代わったために名前を変えた。その後も凶事有る度に名前を変えたが、ここ千年程は現在の名前に落ち着いている。蓬山には四季が無く、年中温暖で花が咲き乱れている。そのため、建物は雨露さえしのげればよく、甫渡宮以外の建物は四阿か庵のような佇まいである。 蓬山には以下の施設が存在する。 蓬廬宮 王と誓約していない麒麟が過ごす一帯を指す。蓬山の中腹(雲海の下)にある。捨身木を基点としたなだらかな地形にあり、様々な建物や園、用途別の池などがある。東は切り立った崖、北は絶壁であり、内部は防犯の為に森や林がない細い路が入り組んだ奇岩の迷路のようになっている。 丹桂宮 蓬廬宮の入口である青陽門近くの蓬廬宮内の建物。蓬廬宮で一番大きい建物である。天勅を受ける王が、吉日までを過ごす。 雲梯宮 天勅を受ける儀式の際にだけ使用される建物。奥に朱塗りの扉があり、その向こうには普段は緑の岸壁が見えるだけで何も無いが、天勅を受ける儀式の時だけ雲海の上の山頂まで伸びる透明な階が現れる。王と麒麟はその階を一段昇るごとに天綱を「自らの中」に刻み込まれる。 白亀宮 雲海の上と蓬廬宮とを繋ぐ平時の通用門の役割を果たす建物。普段は建物だけが存在し、雲海の上下を行き来する時だけ階段が現れる。蓬山頂上からは呪のせいか見た目の割に長さを感じない白い階段でつながっている。白い石を敷いた白い八角形の部屋。山頂から入って振り返ると閉じたはずの門がなく白い壁だけが存在し、他の面は壁が無く緑に苔生した岩肌が迫っている。 甫渡宮 麒麟が昇山者と面会する建物。蓬廬宮の外にある。大きな広場に面している。昇山者はこの周囲で天幕を張って野宿をする。 牌門 蓬山と黄海の境にある門。登山道の階段に塀も何も無く建っている。蓬山自体には垣根など周囲を囲む物は存在しないが登山道がここしかない為、黄海から蓬山への唯一の出入り口。 廟堂 蓬山山頂にある天帝と西王母を祀った白く壮麗な廟。蓬廬宮とは朱塗りの祠を介して出入りし、雲海とは扉の無い門で区切られている。廟堂の裏には石畳が広がっている。 中には壇上に王母と天帝の像があるだけ。壇上には無数の文様が彫りこまれ、白銀の屏風を背に白銀の御座が設えられており、四方の柱間にかけられた珠簾が御座に座った白い石の人物像の胸元までを隠している。西王母に伺いを建てる時などにこの壇の奥に行くのだが、壇の奥の壁には白い扉が左右にあり、廟堂の大きさから考えても扉の向こうなどはありえないのに左側の扉の向こうには同じような建物が続いている。奥は手前と同様の壇と白銀の御座があり、天井や奥の壁がなく、玉座の背後ではいかほどの高さがあるかもわからない大瀑布が純白の壁を作っている。 蓬山の女仙たちは麒麟がいない平時は自らの生活のための機織りや洗濯、畑仕事や祭祀などのルーチンワークをしている。 麒麟は沢山の食べ物を前に一人で食事をする慣わしになっている。
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