五山の確定と幕府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:42 UTC 版)
室町時代の足利義満が将軍職の至徳3年(1386年)、南禅寺を別格として五山之上とし、京都の天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺、鎌倉の建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺をそれぞれ五山に決定しその後の五山制度の根幹となった。 「五山十刹」という場合、別格寺たる南禅寺を筆頭に、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の「五山」と、等時寺、臨川寺、真如寺、安国寺、宝幢寺、普門寺、広覚寺、妙光寺、大徳寺、龍翔寺の「十刹」の総称をいう。 室町幕府は五山禅寺に対して不入権や諸役免除などを認める一方、五山禅寺は幕府の事務の代行や上納金などの財務支援を行う関係にあった。五山の禅僧には宗教活動を行う西班衆と寺院の経理や荘園の管理を担う職能集団の東班衆がいた。 室町時代、幕府との関係が近い五山禅寺は朝廷との関係が近い比叡山延暦寺や南都興福寺と対立関係にあった。大和国を支配する興福寺は奈良への禅寺の進出や臨済宗の僧の入国を認めなかった。また、天龍寺落慶法要への天皇行幸では延暦寺から異議が唱えられ(1345年)、南禅寺の関銭をめぐる園城寺との対立(1367年の南禅寺楼門事件)では延暦寺は全面的に園城寺を支援した。 五山禅寺は幕府の訴訟制度や対中貿易などを通じて勢力を伸長していった。 しかし、応仁の乱で各寺は壊滅的な被害を受け、東班衆の基盤が失われた一方、各地では守護大名の力が強まって五山の荘園管理は難しくなり関所の自由通過権なども失われた。東班衆の去った荘園では守護大名が国人に管理させる守護請が多くなった。また、五山勢力が去って空白地となった北陸地方には一向宗の勢力が進出し新たな拠点を築いた。
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