東慶寺とは? わかりやすく解説

とうけい‐じ【東慶寺】

読み方:とうけいじ

神奈川県鎌倉市にある臨済宗円覚寺派の寺。山号松岡山(しょうこうざん)。鎌倉尼五山の一。開創弘安8年(1285)、開山北条時宗の妻覚山尼覚山尼定めた縁切寺法」により、離縁を望む女人救済の寺として、特に江戸時代縁切り寺駆け込み寺として知られた。明治36年(1903)から僧寺ヶ岡御所。→縁切り寺


とうけいじ 【東慶寺】

鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺。松岡山。一二八五(弘安八)年覚山尼北条時宗夫人)が創建、のち後醍醐天皇皇女用堂尼が五世となり松ケ岡御所呼ばれた二〇世は豊臣秀頼の娘天秀尼薄命女性救済を寺法とし、駆け込み女性助けて駆込寺縁切寺の称がある。鎌倉尼五山一つだが、明治後期から男僧寺院となり、境内鈴木大拙松ケ岡文庫がある。→ 駆込寺

東慶寺

読み方:トウケイジ(toukeiji)

別名 駆け込み寺縁切寺

宗派 臨済宗円覚寺派

所在 神奈川県鎌倉市

本尊 釈迦如来

寺院名辞典では1989年7月時点の情報を掲載しています。

東慶寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/27 09:52 UTC 版)

東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。寺伝では開基は北条貞時開山覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった[注 1]。また江戸時代には群馬県満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。


注釈

  1. ^ 寺を指して御所と呼ぶものの初出は1667年(寛文7年)の銅製燈明蓋の銘文であり「鎌倉御所之塔頭二老海珠庵」とある(井上禅定1955 p.39)。現存する中で最古の寺法離縁状は1738年(元文3年)のものであるが、そこでも寺を指して「松ヶ岡御所様」と記している(高木侃2012 p.26)。
  2. ^ この「五山記考異」は『改定史籍集覧』第26冊 に「五山記考異/附住持籍」として収められている。史籍集覧が底本とした彰考館本(関東大震災で焼失)では後半の「附住持籍」は「五山住持籍」として別にあったものを史籍集覧・編纂時に現在の形にしたらしい。現状の全体では江戸時代初期とかんがえられているが(日本史文献解題辞典 p.166)、『鎌倉市史・寺社編』が戦国時代天文頃としたのは前半部分と思われる。
  3. ^ 新編相模国風土記稿 には「小田原陣の時失いしと云う、その鐘今豆州韮山本立寺にあり」と記す(新編相模国風土記稿 p.213)。しかし現在ではそうは思われてはいない。 この鐘鋳造の翌年の1333年(元弘3年)5月に鎌倉が新田義貞らに攻められ、子の北条高時以下一門が自害し北条氏が滅びるが、覚海円成尼は伊豆国韮山の地を安堵され、一族の女性たちと共に移り住み、尼寺円成寺を建立して一門を供養する。足利直義も1339年(暦応2年)にこの周辺の五ヶ郷と、駿河国の2つの郷を円成寺の寺領とし寄進している。 それらのことから梵鐘は覚海尼によってか、あるいはその後かに伊豆の円成寺に運ばれ、その円成寺が廃寺となったあと、韮山の有力者で徳川幕府の代官だった江川氏の菩提寺・本立寺に移されたものと思われている。(三浦勝男「東慶寺境内散策」『駆込寺』収録 p.191)
  4. ^ 現在東慶寺に残る過去帳には四世住持は「果庵」でなく「杲庵」と書かれているが符合する。しかし1685年(貞享2年)刊行の「新編鎌倉志」には「四世ハ須宗和尚」とあり、東慶寺の昔の鐘にある果庵了道が「何代目ノ住持ト云事未考」と割書で注記している(新編鎌倉志 pp.125-126)。 「新編鎌倉志」は1673年(延宝元年)に光圀自身が鎌倉を旅行した際の見聞記を基に作製されたが、水戸光圀は江戸藩邸の近侍に自分が着く前に、主要な寺、それぞれの土地の長老にその土地の歴史について説明出来るように用意をさせろと命じている。従って「新編鎌倉志」の東慶寺に関する記事はその当時の東慶寺の寺役人が書いた由緒書の写しを基にしているはずである。「新編鎌倉志」の編者は伊豆国韮山本立寺にある元東慶寺の梵鐘の銘文を知っていたが、その当時東慶寺ではそれを知らなかったことにもなる。僧籍でも戒名が生前の名と別なことはあり年代的には四世前後だが、東慶寺に現存する過去帳は「新編鎌倉志」以降の21世永山尼の示寂後のものである。ともあれ住持果庵了道尼は北条氏俗縁の人と見られている(井上禅定1955 p.37、鎌倉市史・寺社編 p.342)。
  5. ^ 南宋の禅宗寺院においては首座は僧堂管領、都寺は監寺総括の役僧(関口欣也1997 pp.71-72、井上禅定1955 p.38) であるので、それらの「役」が実務を伴わない肩書きであったにせよ、この時点でそれなりの規模をもった寺であったことが判る。
  6. ^ なお、東慶寺の「由来書」「旧記之抜書」には「往古草庵道心寺」があって、頼朝の伯母の美濃局がそれを比丘尼寺とし、覚山尼が再建し中興となったと記されているという(穂積重遠1942 p.41)。江戸時代の観光本「鎌倉物語」にもそう書かれているが、鎌倉時代を通じてこれを証明する史料はなにもない(鎌倉市史・寺社編 pp.340-341)。新編鎌倉志p.125)や、新編相模国風土記稿p.209)の取材に当時の東慶寺は北条時宗室の創建と答え、1768年(明和5年)に寺社奉行に差し出した事例書口上書でも北条時宗室が「寺草創」(穂積重遠1942 p.43)とあり、現在の東慶寺も覚山尼を開山としている(井上禅定1955 p.5)。
  7. ^ 「菩薩座光」は現存する水月観音菩薩かもしれないが不明である。
  8. ^ ただしそこでは寺ではなく17世旭山尼を指して「御しょ様」と云っており、「御所」が皇女用堂尼に由来するものなのか、関東公方家の姫君に対する御所号なのかは判然としない。なお、北条氏綱も氏康も「御しょ様」、「東慶寺長老」に直接手紙は出さず、形式的な宛名は「東けい寺(改行字下)侍者御中」または同「いふ侍者御中」である。「いふ」は「衣鉢」であり、今は「いはつ」と読むが、書状には「いふ」と平仮名で書いている。宛名の「東けい寺」は「寺」ではなく「住持」「長老」を指す。「東けい寺衣鉢侍者」とは「御しょ様」とまで言われる高貴な長老の身近く仕える尼僧である。目上の者に直接手紙を書かず、その従者に「こうお伝え下さい」と書くのが平安時代以来の貴族社会の礼儀作法である。寺を指して御所と呼ぶ最初のものは江戸時代になってから、天秀尼の示寂よりも後の無住持時代である。
  9. ^ 蔭凉軒という名は足利氏にとっては由緒のあるもので、京都の相国寺では将軍足利義持(よしもち)が参禅聴講のために総説した小御所的存在だった。後には軒主が将軍の宗教行事の披露奉行を行った。1435年(永享7)から1493年(明応2)までの断続的な記録が「蔭凉軒日録」として残る。要山尼は東慶寺・蔭凉軒の最初の庵主であり、古文書を見る限り若い住持御所様の後見人、実務の長のように見える。北条氏綱の書状から推測する役目、後北条氏と戦闘状態にあった安房の里見氏と交渉出来る立場と、号に「山」が付くことなどから、公方の娘ではないにしても関東足利氏の一族である可能性が高い。
  10. ^ その経緯、及び円覚寺舎利殿が太平寺の仏殿だったこととその建立年代が解明されるまでの経緯は『太平寺滅亡―鎌倉尼五山秘話』に詳しい。
  11. ^ 「瓊山」(けいざん)が号、「法清」が諱である。瓊山尼と呼ばれる方が多いが、法清尼と書かれることもある。 東慶寺で号に「山」が付く尼は足利氏の出と見てほぼ間違いはない。
  12. ^ これは鎌倉尼五山第三位で既に廃寺となっていた旧国恩寺領の一部である。1551年(天文20年)には東慶寺住持17世旭山尼が「いんりょうへ」として蔭凉軒要山尼に「先々の如く」と安堵する黒印状(鎌倉市史・史料編・第三第四 史料番号322「東慶寺黒印状」 p.333)も残る。
  13. ^ このとき太平寺はまだ存在しており120貫文。鶴岡八幡宮は256貫文とある。
  14. ^ 戦国時代は土地の収穫高を石高ではなく通貨単位の貫を用いる貫高であらわした。『鎌倉市史・総説編』では鎌倉では他の地域で行われた石高ではなく「北条氏が行っていた永高の制をそのまま用いた」とする(鎌倉市史・総説編 p.521)。 従って石高で記した古文書はない。『鎌倉市史・寺社編』は25貫文100石相当、つまり1貫を4石として東、この合計112貫380文を石高に換算すると450石になるとする。その根拠は慶長(1596年~1615年)の「水帳」に「永95貫900文余、惣高400石(但永300文1反、石盛十二五歩)とあるからという(鎌倉市史・寺社編 建長寺.6 p.303)。1反300文なら1町3貫文、12石ということになる。しかし石井良助は「100貫(誤植)が25石に当たるから、112貫380文は約280石になる」と書いている(石井良助1965 p.118)。「北条氏政印判状」(鎌倉市史・史料編・第三第四 史料番号328 「北条氏政印判状」 pp.339-340)に前岡郷から「此内前々納所御寺へ参分」として51貫300文を米223俵とある。江戸時代に幕府は1俵を3斗5升としたが、これで換算すると223俵は78石で1貫は1.5石となるが、時代により地方により換算レートは一定しない。 「貫」と「石」の換算以外にも鎌倉の寺社領は他所の寺社領とは全く異なり、北条氏が年貢の他に棟別を課していたのを襲い幕府の徴税の対象とし、更に新たに段銭を課している(鎌倉市史・総説編 p.521)。従って同じ貫高表示の鎌倉の寺社との比較は出来るが、逗子に寺領を持つ鎌倉の尼寺英勝寺との比較は出来ない。貫高には普通の貫高と永楽銭ベースの永高があるが後北条氏も永高を用いていたことで知られる。1547年(天文16年)の北条氏直印判状当時も永高であったとすると、徳川家康が安堵した寺領は北条氏直印判状の時点から相当に削減されたことになる。もちろんそれは家康が削減したのか、1547年以降北条氏が滅ぶまでの間に削減されたのかどうかは不明であるし、1547年当時のこの文書には永高かどうかは記されていない。
  15. ^ 鶴岡八幡宮は源氏を名乗る徳川家にとっては特別な意味を持つので840貫と飛びぬけているが。また建長・円覚の貫高には報国寺(建長)、明月院(建長)、瑞泉寺(円覚)など末寺の分を含んでおり、それを差し引くとさらに下がる。末寺分の貫高は不明である(鎌倉市史・総説編 p.572)。
  16. ^ 平均的農家の年貢のベースとなる表高は約10石であるので6貫 - 4貫とは仮に1貫を4石と換算すると農家2軒分の年貢しかないということになる。なお臨済宗以外では、日蓮宗関東総本山の本覚寺12貫、浄土宗鎮西派大本山の光明寺10貫までがかろうじて2桁以上でありそれ以外は一桁である(井上禅定1955 p.61、鎌倉市史・総説編,「鎌倉惣高之帳」pp.571-572)。ただし光明寺はその後内藤忠興の寄進などで300石となっている。
  17. ^ その諱の1字目の「法」は、東慶寺の系字(江戸時代には東慶寺の尼は全て諱の1字目は「法」)である。瓊山(けいざん)尼は前項で触れた東慶寺19世の瓊山法清であり、小弓公方足利義明の孫で父は足利頼純である。その妹の月桂院は秀吉の側室で、秀吉の死後江戸に移り家康の娘正清院に仕えていた。東慶寺住職だった井上禅定は天秀尼の東慶寺入寺は「恐らく月桂院あたりの入知恵と推察される」(井上禅定1955 p.51)とする。 断絶間際の関東公方家を、古河公方足利義氏の娘・足利氏姫(足利氏女)と、瓊山尼や月桂院の兄妹である小弓公方家の足利国朝を結婚させて、実高5千石ながらも10万石の格式の大名(喜連川藩)として存続させたのはこの月桂院の働きかけによる。なおこの月桂院が開いた月桂寺は18世紀に東慶寺と喜連川藩の仲裁役として登場する。
  18. ^ 首座、書記、蔵主は、住持の代わりに法堂の法座に登り払子(ほっす)をとって説法をすることもある重要な役職である(関口欣也1997 pp.71-72)。ただし東慶寺は格は高くとも建長寺や円覚寺のような大寺院ではないので、この場合の「蔵主」とは実際の職務ではなく肩書、地位の呼称である。
  19. ^ 大門その他もこのとき徳川忠長の「御殿」から移築されている。
  20. ^ この棟板が千姫、天秀尼、春日局の名が記された先の棟板である。「駿河亜相」の「亜相」とは大納言唐名であり、「駿河大納言」という意味である。棟板は江戸時代後期には仏殿から外されて保管されていたということになる。ということは「新編相模国風土記稿」が書かれた1841年(天保12年)以前にこの仏殿の屋根の改修工事が行われたということである。東慶寺の古文書はものにより異なるが、「由緒書」にはその他に仏殿、蔭涼軒の建物も「駿河大納言様御殿を引きせられ」(井上禅定1955 p.53)とある。ただし江戸時代初期の「新編鎌倉志」には千姫や駿河大納言の記述はない。もっとも記述量は木版本で6頁と少ないが。(新編鎌倉志 pp.125-126)
  21. ^ 三溪園に移築された旧仏殿は、1956年(昭和31年)に修理が行われ、その報告書は「仏殿の建立年代は詳ではない」とした上で「形式手法上、室町時代に属する」と述べ、おそらく1515年(永正12年)の大火災後に建立されたものが「駿河大納言様の御殿御寄付」のときにその部材をもって修理されたのではないかと推測した。それに対して鎌倉禅宗建築史の第一人者である関口欣也は、棟板は新築の仏殿のもの、1956年(昭和31年)の修理工事報告書にある「形式手法上室町時代」は様式論であり明確な根拠がある訳ではない。室町時代の要素も一部にあるが、江戸時代の鎌倉大工の作風は、17世紀中期をやや下る頃まで室町末風で保守的な傾向があり(関口欣也1997 p.146)、更に詳細に見るとやはり近世の特色を見せており、寛永11年という時代にふさわしいとする。現在ではこの関口説が定説となっている。なお「修理工事報告書」や、現在の三溪園「仏殿」前の説明文には、1515年(永正12年)の大火災を1509年(永正6年)と記すがこれは誤りである。(鎌倉市史・寺社編 pp.345-346、および鎌倉市史・史料編・第三第四 史料番号312「釈迦如来像銘」 p.326)
  22. ^ 中世・近世では屋根葺工法の中で檜皮葺が最も格式の高い技法であり、次ぎが現円覚寺舎利殿のようなこけら葺である。 一般に檜皮葺・こけら葺から瓦葺、そして茅葺へと移る。現在では瓦葺より茅葺屋根の維持の方が大変だが、江戸時代にはそちら方が維持は楽であり、建長寺では1837年(天保8年)に法堂(はっとう)を瓦葺から茅葺に改めるための勧進まで行っている(関口欣也1997 p.162)。 円覚寺の国宝舎利殿も1967年(昭和42年)の修復までは茅葺であったが、その修復調査の際、元はこけら葺きであったことが判明し、現在の姿に復元された。工藤圭章は1703年(元禄16年)の大地震のときに屋根が傷み、茅葺に改めたのだろうとする(工藤圭章1988 p.49)。 国宝正福寺地蔵堂も茅葺になっていたものを1933年(昭和8年)の解体修理に際して建築当初のこけら葺に直している。そのときにこの地蔵堂の創建が1407年(応永14年)と判り、そこから円覚寺舎利殿の創建年代が判明したという経緯がある。その改修工事の際1811年(文化8年)の墨書名も発見されており、茅葺への改修はそのときと思われる。檜皮葺から銅瓦葺に改めた例では鶴岡八幡宮の文政再建がある(関口欣也1997 p.168)。ただし入母屋造から寄棟造への改修が、推定檜皮葺から茅葺への変更と同時であったのかどうかは判らない。仏殿を入母屋造に書いた「相中留恩記略」は1839年(天保10年)完成で、棟板のことを書いた「風土記稿」は1842年(天保12年)の完成ではあるが、実は「相中留恩記略」は昌平坂学問所が行っていた「風土記稿」の調査に便乗する形で行われている。「相中留恩記略」編者の福原高峯と絵師の長谷川雪堤が相模国を写生旅行したのは1834~1838年(天保5,7,9年)の三回であるが(かながわの歴史文献55 pp.77-78)、「風土記稿」の調査は1824年(文政7年)に鎌倉郡から始まっている(「かながわの歴史文献55」 p.73)。屋根は檜皮葺でも茅葺でも数十年単位で葺替るものなので「風土記稿」の前にも後にも行われているはずである。
  23. ^ 鐘板(しょうばん)、打板(ちょうばん)、更に火版、長板、斎板などの別称がある。この雲板は鎌倉市文化財になっている。
  24. ^ 天秀尼はこの件で1980年(昭和55年)に「神奈川県百傑」に選ばれている。
  25. ^ 歴代住持墓塔のエリアに在家(出家していない人)の宝篋印塔があることは極めて異例に見えるが、19世以前の住持の墓石はどこにも無い。21世永山尼の墓が出来たのは天秀尼・台月院から数十年後の18世紀であり、その前列の院代等の墓は更に後である。天秀尼、台月院の没年にここが歴代住持墓塔のエリアであったかどうかは不明である。
  26. ^ 西堂は他のそれなりの格をもつ寺院の住持を勤めた者で、その寺の前住持を東堂と称するのと対語となると一般に説明されるが、東慶寺においては蔭凉軒主が他の尼寺の住持であったことを示す記録は無い。従ってここでの意味は住持ではないが住持格。住持の弟子である都寺・監寺などの知事、首座・書記・蔵主など頭首の上位という意味になる。他の塔頭の庵主の法階は概ね首座都寺である。
  27. ^ 庵ではなく軒であるがここでは一般名称の庵主を用いておく。徹宗法悟尼像は1735年(享保20年)に90の賀を祝った記念に書かれたものと思われる(井上禅定1995 p.179)。
  28. ^ そのときの扁額は徹宗尼の筆であり今も残る。泰平殿は元太平寺本尊の聖観音立像(現重文)を納めた。泰平殿は太平寺に由来する。この泰平殿は中門(現在の山門)の石段の右にあった。近代に現在の宝蔵前、菖蒲畑の位置に移築し本堂としたが関東大震災で倒壊する。
  29. ^ 寺役人の出身は判るものと判らないものがあるが、身分としては武士身分である。東慶寺では不明であるが、やはり寺役人を置いた出羽国宝幢寺の例(松本和明2008 pp.20-38)では「武門役服」である継袴の着用が認められ「士分」・「徒士」・「足軽」という武家の階層に当てはめれば「士分」に相当する。
  30. ^ 先に登場した19世瓊山尼の妹月桂院開基の寺
  31. ^ 鎌倉の寺はおおむねそうだが東慶寺も山に囲まれた谷戸にありその尾根までが境内である。
  32. ^ 大久保彦左衛門の子孫である。
  33. ^ 寺社奉行は定員は4名前後。このときは5名であった。原則として1万石以上の譜代大名であり阿部播磨守は武蔵忍藩10万石の大名。脇坂淡路守は播磨龍野藩5万1000石の藩主である。寺社奉行は勘定奉行や江戸町奉行とは格が異なり、老中ではなく将軍直轄で奏者番を兼任する幕臣エリートの出世コースである。この二人はいずれも後に老中になっている。他の3名は松平右京(上野高崎藩8万2000石藩主、のち老中)、松平周防守(石見浜田藩 6万5000石藩主)、堀田豊前守近江宮川藩1万3000石藩主)である。寺社奉行は自邸が役宅となる。
  34. ^ これは東慶寺に残る古文書からではなく、同じ鎌倉の尼寺で水戸藩と関係の深い英勝寺の記録による。
  35. ^ 脇坂淡路守は2度寺社奉行を勤め、後に老中となっている。
  36. ^ 貸付金は周辺地域の財力のある者の出資をうけたようで、1866年(慶応2年)正月時点での貸付総額は1,795両にものぼっている。お寺が金融業というと現在の感覚では奇異な感じを受けるが、こうした例は中世からあり江戸時代の他の寺院にも例がある。鎌倉では東慶寺の後に建長寺、円覚寺、浄智寺、鶴岡八幡宮、英勝寺も許可された(高木侃1997 pp.801-805)。ただしこの「実収半減」は本当かどうかは不明である。 法秀尼より後の1866年(慶応2年)の日記によると、二階堂から夏58両、冬65両、十二所より夏15両、冬15両の合計153両と米64俵(22石)藍6俵等の収入がある(井上禅定1955 p.79)。
  37. ^ 石井良助は「白州はおそらく、通常の裁判の場合に用いられたのであり、かけ入り女は罪人ではなく、また夫を相手どっての訴えでもないから、女人救済の東慶寺としては、これを白州に引き据えて吟味するようなことはなかったのであろう」とする。
  38. ^ 現在鎌倉宮になっている東光寺跡、永福寺跡理智光寺址は東慶寺の所有であった。 理智光寺は少なくとも江戸時代には東慶寺の末寺で明治初期まで阿弥陀堂が残っていた。本尊の木造阿弥陀如来坐像(鞘阿弥陀)は聖観音立像と同じ土紋装飾で、明治初期の廃寺に際して覚園寺に移され、現在薬師堂に安置されている。その他山林も残ったが関東大震災のときにその一部を売却して書院等を再建し、戦後に永福寺跡が鎌倉市に買い上げられてその資金で宝蔵を建築した。
  39. ^ 中世の範囲は教科書的には支配者の交代を基準として鎌倉時代に始まり、室町時代をはさんで戦国時代までとするものが多いが、歴史学者の中では農民に対する支配制度、風習などの観点などから、律令制が空洞化した後の「王朝国家体制」を中世の始まりとしたり(永原慶二1974 pp.7-82)、11世紀半ば過ぎからとする意見も多い(石井進2002 pp.9-14)。従ってここでは平安時代後半も含めて中世として扱う。
  40. ^ 山芋甘葛の汁で煮た。ほんのり甘く当時としては高級料理。
  41. ^ 当時女性は往来では顔を隠していたので重方はその着飾った女が自分の妻とは気づかなかった。そうと知らずに「つまらない女房はいるにはいますが、そいつの顔は猿のようで、心は行商女も同然の賤しさ」、「ここからすぐにお供をして、女房のところへなんか二度と足を踏みいれますまい」と云ってしまう。
  42. ^ 近衞府生であって貴族では無いが、天皇の行幸や高官の外出時の警護の際には騎乗を許可され前駆する立派な武官である。
  43. ^ 源平合戦(治承・寿永の乱)の頃、木曽義仲の妾巴御前の武勇は物語で有名だが、確実な例は『吾妻鏡』にある。「建仁の乱」のとき、城長茂の叔母板額御前鳥坂城で「童形の如く上髪せしめ、腹巻(鎧)を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る」、そして射られた者はほとんど死んだと伝える(吾妻鏡2 建仁元年5月14日条 p.588)。 これは特異な例ではなく『吾妻鏡』には「女騎(にょき)」という女武者の一団の記述もある(吾妻鏡2 建仁3年9月29日条 p.611)。
  44. ^ 鎌倉時代前半に大きな勢力を持っていた三浦氏が滅ぶ宝治合戦(1247年(宝治元年)6月5日)のとき、大江広元の四男毛利季光北条時頼のもとへ駆けつけるべく「甲冑を着し、従軍を卒して御所に参らんがために打ち出ずるところ」妻に鎧の袖をつかまれて「私の兄(三浦泰村)を捨てて、時頼につくとは何事か」と詰め寄られて三浦方に付き、一緒に滅んだ(吾妻鏡3 宝治元年6月5日条 p.381)。この三浦泰村の妹は前日に兄のもとを訪れ、夫に「我身諷諫を加え一同なさしむ」と述べている(吾妻鏡3 同4日条 p.380)。 一方で三浦一族の内、時頼の祖母である矢部禅尼の子佐原盛時ら三兄弟だけが北条時頼方に付いた。矢部禅尼はこのとき伐たれた三浦泰村の兄妹で、北条泰時の最初の妻。時頼の父時氏を生んだ後に泰時と離縁し、佐原盛連に嫁いで盛時ら三兄弟を生んでいる。矢部禅尼にとって北条時頼は可愛い孫である。他の佐原一族は三浦氏と運命をともにした。 14代執権北条高時が執権を退いたとき、中継ぎとして15代執権となった庶流の北条貞顕に対して東慶寺の大鐘の檀那として本稿でも出てきた北条貞時の妻、高時の母の覚海円成尼は大いに怒り、貞顕を打つとの風聞さえ流れたため貞顕はわずか10日で辞任し出家した。嘉暦の騒動という。
  45. ^ これは悔還(くいがえし)権についての定めである。親の存命中に所領を譲った場合、子が親の意に沿わない場合には譲った所領を取り返すことが出来る。リア王のようにはならないというのが「悔還」である。 それ以前の朝廷の法律家(明法家)は、息子に与えた所領は「悔還」が出来るが、娘に与えた所領は他家に渡っているので「悔還」は出来ないという解釈だった。そのために親は存命中に娘に所領を譲ることを躊躇することがあった。それに対して北条泰時らの「御成敗式目」は、そのような事態は「親子義絶」の始まりで「教令違反」の原因でもあるとし、男女ともに「悔還」を有効とするので、安心して娘にも所領を譲ってやれとこの18条で云っている。当時は嫡男による単独相続ではなく、分割相続だった。
  46. ^ 例えば1279年(建治元年)7月8日の将軍家下文で佐志村地頭を安堵された久會は肥前水軍松浦党の一族・佐志房(「佐志」が名字で「房」が)の孫娘で、「松浦有浦系図」はこの久會を「女地頭」と記している。さらに下って、南北朝時代の1364年(正平19年)の懐良親王令旨をもって「松浦斑島女地頭」に知行地を安堵しており、今川貞世感状を与えている。翌年2月に軍忠状を進めた「松浦斑島地頭尼」もおそらく同一人物であり、代官を戦場に送っている。
  47. ^ 十六夜日記の著者阿仏尼が鎌倉に来たのも訴訟のためである。
  48. ^ 鎌倉時代中期の僧無住道暁が現した仏教説話集『沙石集』の巻7-10話「先世ノ親ヲ殺事」は美濃国の話である。妻が夫から逃げて地頭に訴えたのだが、父親の生まれ変わりであると妻が夢に見た雉を殺してしまった夫は「逆罪」であると夫を追放し、妻は情けあるものとして家と田畠をもらい公事も許されたという話である(田端泰子2002 p.37、ただし田端は10話と11話をゴッチャにしている)。 巻7-11話の「無情俗事」は陸奥国の話で、「慳貪」な夫を妻が地頭に訴える。地頭は「夫こそ妻をさる事あれ、妻として夫を去る事如何なる子細ぞ」と事情を聞き、その結果夫は追放刑に処され、男公事は免除されたと。「慳貪」とはどれほどのことかと云うと、30尾も獲った鮎を夫は妻にも子供にも与えず、全部一人で食べてしまったという程度である。妻は残った家と田畠をもらったのか、そもそも妻のものだったのかは判然としない。「夫こそ妻をさる事あれ」の解釈による。 二話ともに妻が地頭に訴え出ることで離婚出来ている。両方の説話とも「逆罪」とか「慳貪」を戒めることが話の中心であって、妻が地頭に訴えることには何の異論も差し挟んではいない。むしろそんな男なら妻が地頭に訴えることも、地頭がその男を追放し、財産を妻に与えることも当然と作者無住は捉えている。 この話は穂積重遠も一部を引用しているが「地頭が妻の離婚願を取上げるのであるが、しかしそれは特別処分だということになっている」と書く(穂積重遠1942 p.38)。しかしその記述は「沙石集」の著者無住国師が生きた鎌倉時代の世態・風俗・人情を伝えるとされる写本「梵舜本」にはない。穂積重遠は「梵舜本」に「巻7-11話、無情俗事」とある説話を「巻7-16話、慳貪者の事」と書いているので、参照した写本は「米沢本」であろう。「米沢本」は室町末期から江戸初期の書写と考えられている(沙石集 「解説」 pp.22-23)。江戸時代の奉行所・代官所の儒教感覚ならこの裁定は有りえず「特別処分」と書かなければ皆がくびをかしげる。 なお「沙石集」はあくまで仏教説話集であり事実を忠実に記している訳ではない。著者無住と、それを読みまたは聞いた人間が普通のことと感じている鎌倉時代の世態・風俗を知ることができるという点で評価されている(佐藤進一1963 pp.2-4)。
  49. ^ 最初に女性が公的な世界から排除されるようになった契機は中国から輸入された律令制の浸透によってであるとされる。平安時代においても女性は位階はもっても官職からは排除されている。
  50. ^ フロイスはイエズス会の宣教師でありカトリック教会は離婚を認めない。「堕落した本性にもとづいて」にはそういう背景がある。
  51. ^ 当時のカソリックは離婚して再婚すると教会法上の重婚状態とされ、その罪のため聖体拝領を受けることが出来ない。 他にはこういう記述がある。「日本の女性は処女の純血をなんら重んじない。それを欠いても名誉も結婚も失ないはしない(結婚できる)」「日本では、娘たちは両親と相談することもなく、一日でも、また幾日でも、一人で行きたいところに行く」。 フロイスが見た戦国時代の日本とは長崎から堺、京までの西国であろう。これらは近代の瀬戸内海、山陰山陽の常民(簡単に云うと庶民)にも見られた。 前者は宮本常一2001 p.43、後者は宮本常一1984.5 pp.105-130 および宮本常一1984.7 p.23、宮本常一2001 pp.92-96)。 「日本の女性は夫に知らさず、自由に行きたいところに行く」。 「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分のわけまえを所有しており、ときには妻が夫に高利で貸し付ける」。 高木 侃は『三くだり半』の中で「明治民法は、それ以前は立前にすぎなかった夫権優位を現実に強制したのであり、たとえば "貞女二夫にまみえず" といった儒教的婦徳が現実に要求された妻は "家" という強固な枠組みの中で縛り付けられ」(高木侃1992 p.21)」と述べたが、儒教が浸透していない中世では「夫権優位」は立前ですらなかった(田端泰子2002 「9.中世女性と近世女性の差」 pp.277-292)。
  52. ^ あるいは「実現出来なかった」という方が適切かもしれない。戦国時代奥州伊達家の「塵芥集」などには子供の分配を決める項目がある(大石慎三郎1995 p.4)。男の子は父親の主人が、女の子は母親の主人がとるが、10 - 15歳まで育てたら育てた方の親の主人がその子供をとると。どっちの親がではなくてどっちの親の主人がである。子供の親は夫婦として独立した家に住んではいないということである。親も子供も主人の所有物だと。似たような例は鎌倉時代の御成敗式目の他(中世法制史料集1 「御成敗式目」41条「奴婢雑人事」 p.24)、極楽寺の古文書(中世法制史料集1 追加法676条 p.301)にも見られる。
  53. ^ 男子禁制の東慶寺が夫から逃れるための妻の駆込みを受け入れることも言語道断とされ、荻生徂徠門下の太宰春台などは1717年(享保2年)に鎌倉を訪れた際の紀行文『湘中紀行』にこう書いている。 「婦人あり其の良人を悪んで而して去るを得ず、また淫行ありて而して発覚を懼るる者、二心ありて而して改嫁せんとするも者、髪を断って而してこの寺に入れば則ち本夫も之を制するを得ず、…これ其男子を厳禁する所以なり。夫れ尼寺の男を禁ずるは以て淫を防がんとするなり。今乃ち男を禁じて以て世の婦人の淫行を助く。誰か松ヶ岡を淫婦の叢林にあらんずと謂ふや」(井上禅定1976 p.145)。松ヶ岡とは東慶寺のこと、叢林とは禅寺のことである。
  54. ^ 例えば島崎藤村は1929年(昭和4年) の『夜明け前』に「幾時代かの伝習はその抗しがたい手枷足枷で女を捉えた。…しかし、こんな娘達の深い窓のところへも、この国全体としての覚醒を促すような御一新がいつの間にかこっそり戸を叩きにきた」と書く。
  55. ^ 女性の「手枷足枷」は江戸時代よりもむしろ明治時代、それも最初からでなく後半からである。一般庶民の結婚感に影響を与えたものに1890年(明治23年)の教育勅語発布から始まる修身教育がある。 初代文部大臣であった森有礼は儒教主義に批判的で欧米化政策を進めようとしたが、1879年(明治12年)に儒学者で天皇の侍講であった元田永孚が起草した『教学聖旨』が提示される。これは古来からの儒教主義的道徳観にもとづく教育の確立を目指したもので、しばらくは伊藤博文福沢諭吉ら欧米化政策派からの批判に晒されはしたものの、天皇による聖旨という形で書かれたために影響は大きく、1882年(明治15年)の文部省による『小学修身編纂方大意』以降、儒教に基づく修身教育が進められる。 庶民の世界にも「忠君孝心」とか「女三界に家無」な儒教的立前(武家道徳)の植えつけが効果をあげ始めたのは1900年前後(明治30年代)に児童の小学校就学率が高くなって以降である(宮本常一1987 pp.226-229)。明治民法が施行されたのもちょうどその頃の1898年(明治31年)である。しかしそれがより強く浸透したのは都市部とか旧制中学女学校に通える程度の上中流層であった。島崎藤村は地方の名家の生まれで明治学院に入学したのは1887年(明治20年)である。
  56. ^ 石井良助の「夫専権離婚説」として「このことは夫は何の理由も示さないで、離婚できたことを示している。すなわち、徹底的な夫の意志だけで離婚が成立する専権離婚であり、また離婚の成立に特定の原因を必要としない無因離婚だったのである」という言葉が知られている(石井良助1965 p.49)。しかし石井は同時に「夫が不始末をしでかして、お詫びのために離婚しなければなららくなった場合でも、離縁状を書き、離婚する者は夫であった」(石井良助1965 p.25。)、「夫婦"示談" "相談"の上での離婚であっても、形式的には夫が妻を去る(離縁するの意味)形式になる」というように(石井良助1965 p.65)、実態としても「夫が勝手気儘に妻を離婚出来た」と言っている訳ではない。家を出される婿養子の離縁状でも「勝手ニ付」であり、かつある入夫の事例では同じ離婚に離縁状が二通残っていてひとつには「親子共縁切」とあること。かつ二通とも宛先に「御親類中」もあることから「おそらく前の離縁状を書いたあとで、子の処置について(親族内で)問題が起こり、改めて子の縁も切るという一札を入れたものであるう」と述べている。これは実態としては親類まで含めた「熟談」が実態あることを示しており、石井良助はそのことに注意を喚起している(石井良助1965 pp.92-93)。また「地震・雷・火事・大屋」という節では「その大屋をさしおいて、勝手に離縁状を妻につきつければ、あとで大屋から雷が落ちるであろう。そこで、いちおう大屋に相談することになるのだが、そうすれば、家守(大屋)は調停の役を勤めたにちがいないのである。農村では大屋にあたる者はいなかったにしても、五人組とか名主がその役目をしたであろう。…そういうわけであるから、離婚するには、夫は離縁状を妻に渡せばよかったとはいうものの、そう簡単にはいかなかった場合が多いとおもう」とも述べている(石井良助1965 p.40)。後に出てくる東慶寺の寺法離縁の手続きで名主と五人組を巻き込んでいるのもそういう意味がある。
  57. ^ 歴史家の一部にもそういう認識を持つ者がいる。 例えば井上清 は「(離婚は)もっぱら夫の側からなされ、夫は"我ら勝手につき"・・・と三行半に書いた離縁状をつきつけさえすればそれでよい"無因離婚"(正当の理由原因の無い追い出し)であった」と書く(井上清1949 p.158)。五十嵐富夫も「多くの離縁状には離縁の原因としては正当性を欠く理由、"我等勝手ニ付"、"家風ニ不応"・・・等をあげ、一方的に夫から夫から妻に離縁状を突きつけるのが一般的であった。"我等勝手ニ付"に至っては、理由も何も示さないのと同じである。このことは、夫の意志いかんで妻の意向を無視して、一方的に離婚することが可能であることを示したもので、当時の妻の座が極めて不安定であったことを示している」と書く(五十嵐富夫1989 p.181)。
  58. ^ 中には妻の不倫を臭わせるものもある。通常は「誰と再婚しても構わない」と書くが、まれに「誰それを除き」というものがある。その場合でも「浮気をしたから」とは書かないで「我等勝手ニ付」である。
  59. ^ 離縁状を渡した夫が、その受け取りの一札をとっている事例は研究者以外にはあまり知られていない。元夫が再婚したあとで、元妻が離縁状なんてもらっていないと訴えると元夫は二人妻(重婚)の咎を受けて大変なことになる。 先の井上清 は「この離縁状のないかぎりは、かりに妻が夫家を逃げ出して何年経っても、離婚にはならず、従ってその女はほかの男を愛することも出来ない」と書き(井上清1949 p.158)、五十嵐富夫も「離縁状を入手しない限り妻は婚姻状態が継続していると解せられていた」と書くが(五十嵐富夫1989 p.116)、これは代表的な幕府法「律令要約」や「公事方御定書」の規定によっても誤りである。 そもそも夫が離縁状も書かずに後妻をもらうと幕府法「公事方御定書」では「重婚」で「所払い」あるいは「家財取上げ、江戸払い」の刑に処せられる(高木侃1999 p.49)。井上清は縁切寺法を「八方塞がりの封建社会の息抜きの小窓として、宗教とむすびついてこういうものがつくられたのであるが…一つの偽善的な制度であると書くが(井上清1949 p.159)、東慶寺と満徳寺が幕府寺社奉行所の圧力に必死で戦った結果出来たものが両寺それぞれの縁切寺法であることは、東慶寺、満徳寺に残る、あるいはそれに関わる奉行所・藩などの史料でわかる。 また、離縁状は全国一律に必須とされていた訳ではない(石井良助1965 pp.35-37、高木侃1999 pp.231-232)。そもそも最も封建的で男優位であるはずの武士の世界では、結婚も離婚もそれぞれの家が支配の上司に届けることで正式に成立する(高木侃1999 pp.102-103)。ただし離縁状が全く用いられなかったのかというとそうでもない(高木侃1999 pp.442-454)。
  60. ^ 江戸時代というのは平安時代末期から戦国時代まで続いた在地領主制を廃止して「士農工商」で「士」と「農工商」を分離した上に成り立っている。単に身分の分離だけではなく、武士は城下町に住み、農民の社会は「村」で、その村には武士は住んではいない(佐藤常雄1995 pp.92-94)。例外は有るが。 もうひとつは、先に触れた農民に「家」が確立したこと、すなわち小農の自立である。「村」は農民の自治で運営され、年貢も村単位で、村の代表者である名主等が幕府や藩に村の年貢を納める。名主というと代々世襲のイメージが強いが、そんな例ばかりではなく1年ごとの持ち回り、選挙で決めることも多かった(佐藤常雄1995 pp.99-101)。 その村の中でのもめごとは勿論、村と村とのもめごとでも、基本的には仲介者をたてるなどして話し合いで納める。例えば信州のある村の「村中一統申合定書」には「村方の困窮者を良く見極めて救済すること」などと一緒に「訴訟や喧嘩口論は決して行わないこと」が上げられている(佐藤常雄1995 pp.121-124)。 今ではあまり良い意味では使われない「ムラ社会」とは、その村落共同体の独自のルールによる自治のことである。従って、縁切寺への駆け込みや奉行所などへの訴えなど、今日古文書に残るものはその「ムラ社会」内の調整機能では収まらなかった例外であるとも云える。 その「ムラ社会」内の調整機能たる「仲人・親類・五人組等の介入・調整」はかなりの長期に渡ることがある。史料に残る最長は、穂積重遠が紹介した3年である(穂積重遠1942 p.13-14)。これは同じ夫婦の離縁についての離縁状の日付と、今で言えば住民異動、戸籍の異動に相当する人別帳に関わる「送り状」の日付の差である。つまり夫が離縁状を書いても双方に対立があり、「和談」にならない場合は名主などの村役人も離婚済みとはしなかったということである。別の夫婦の離縁ではその間の調整の子細を述べる古文書があり、これは戌(いぬ)年11月に妻が実家に帰された件での子(ね)年5月の「済口一札」であり、その間約1年半が経過している(穂積重遠1942 p.15-20、石井良助1965 p.38)。 「形式上妻は夫から離縁状を受理」の良い例に婿養子の離縁状がある。養子縁組の解消権は養父にあり、養父が養子縁組を解消すると、普通はその家の娘との結婚も解消される。しかしこの場合でも夫から妻への離縁状が必要とされた。これは「任意」ではなく、養父は養子から娘への離縁状を取らないと、お上から「不念」として譴責された。「去状を、書くと入婿おん出され」という川柳があるが、無理やり書かされる離縁状でも、その文言は「此度我等勝手に付、離縁致し」なのである(高木侃1992 pp.60-61)。石井良助も紹介しているが、「傍付添御門前迄罷越」と夫に付き添われて東慶寺に駆け込んだ女房がいる。「安政三年曾屋村のまさ」である。夫は「勝手気儘に妻を離婚出来た」のなら有りえない話である(井上禅定1955 pp.159-160 、石井良助1965 pp.24-25)。石井良助の「夫専権離婚」説はそれを承知した上でのことである。
  61. ^ もうひとつの実例は「此度我等勝手ニ付、不縁之義」の次の行に「任其意」(その意に任せ)と書かれた三下り半もある。 これは「妻の勝手」(離婚要求)であったことを示す(高木侃1992 p.96)。
  62. ^ 妻の書いた離縁状」のケースは妻と夫が互いに離縁状をしたためている。 内容からは2年前に養子となった夫が病のため婿養子としての勤めが果たせなくなったからというものであり、妻側は百両の「離別之験」を夫に渡している。このケースは百両もの「離別之験」を出せる商家(質屋)であり、「病のため婿養子としての勤めが果たせなくなったから」とは「決して落度があった訳ではない」ということで、更に「婿養子としての行いは申し分なく、よくやってくれました」と表明し、出される婿の世間体に配慮している。だがそれを妻側が表明するところに力関係が見える。
  63. ^ 対馬や瀬戸内海あたりでは「テボをふる」「ホボロをふる」という言葉があった。江戸時代からあった言い方のようである。「テボ」とは藁で編んだ籠のようなもので、山口県の萩では「ホボロ」「ホボラ」ともいう。それひとつで、あるいはそれふたつを天秤棒で担いで嫁入りすることを「テボカライ嫁」という。江戸の落語に「[[たらちね (落語)|]]」があるが、そこに出てくる風呂敷づつみひとつので大家に連れられてやってくる嫁のようなものである。その「テボカライ嫁」に対して「あそこの嫁がテボをふったそうな」という使い方をする。嫁が婚家を去ったという意味である。本当に夫を嫌っている場合には親元には帰らないで、夫の目に届かないところへ行ってしまう。戻ってくれと云われれば条件次第では考えても良いという場合には親元へ帰る。きっと夫は詫びてくる。そんな場合には親は娘を無理に婚家へ帰そうとはしない。 相手の出方をまつ。妻が夫に追い出されたという場合は「テボをふる」という言葉は使わず、またそういう例は少ないという(宮本常一2001 pp.53-54、宮本常一1987 p.43)。その聞き取りは昭和だが、民俗学で浮かび上がってくるものは江戸時代から変わらない習俗が多い。 「貧農史観は誤り」というのは正しくはあるが、しかしそれは江戸時代の農家平均の話であって、山間部や瀬戸内海・対馬のような島の寒村では明治・大正においても江戸時代初期のような生活であった。 それらの村では米は年貢に取られてしまうのではなく、畠が中心でそもそも米は作ってはいないか、あるいは極めて僅かしか獲れない。 そういう村で米を食べようと思うと娘が「穀寄せ奉公」と云って田のある平野地方に出稼ぎに行く。 そこでは米が食える。40日ぐらいの農繁期を働いて労賃が米一俵になるとそれを担いで帰ってくる。それで正月は家族みんなが米や餅を食える(宮本常一2001 pp.89-92)。 そうした関係もあって女性の行動範囲は案外広く、夫の目に届かないところへ行ってしまうことはさほど困難ではない。 これらの地方で江戸時代に「嫁がテボをふった」場合に離縁状はどうなったのかというと、四国、中国、九州ではそれを必須としていない処が多い(高木侃1999 p.228)。実際に四国は全域、中国・九州では大半の県で離縁状は1通も見つかっていない(高木侃講演会資料2013 p.2、高木侃2012 pp.40-42)。 従って離縁状も縁切寺も、極論すれば地域限定のローカルな話であって日本全国に当てはまるものではない。 ちなみに関東ではどうかというと、鎌倉も含む湘南の御輿甚句にこういうものがある。 「せぇ〜 娘 十七・八 嫁入りざかり 箪笥・長持・鋏箱 あれこれ持たせてやるからにゃ 必ず帰ると思うなよ そこで娘の言うことにゃ ととさん かかさん そりゃ無理よ 西が曇れば雨とやら 東が曇れば風とやら 千石積んだる船でさえ 港出るときゃまともでも 風の吹きよぅじゃ出て戻る ましてわたしは嫁じゃもの ご縁が なければょ〜 出て戻る」。御輿甚句は男も女も、老いも若きも、親も子も一緒に御輿を担ぎ、あるいはその廻りに集うところで歌われる。これが実際の庶民の感覚である。
  64. ^ なお、「駆込は迷惑だから受け付けない」と表明したところは、以降全くの門前払いだったのかというとそうではなく、縁切奉公は受付ない代わりに妻実家方、夫方の名主を呼び出して「夫に縁切状書かせろ」と命ずる。 江戸時代ももうちょっとで終わりという1858年(安政4年)に、相模国淵野辺村から、同じ相模国の東慶寺でなく江戸の地頭所(領主である旗本の屋敷)へ離縁を訴え駆込んで「内済離縁」を勝ち取った女房がいる(長田かな子2001 p.128)。「夫の手に負えぬ場所」は江戸時代を通じてそれなりに機能していたといえる。
  65. ^ 「死罪」は死刑の中でも重く、死体は山田淺左衛門が刀の試切りに使う。 更に死体は埋葬されず取り捨てられる(長田かな子2001 p.194)。
  66. ^ 幕府法では密通は殺人などと同様の刑事事件で、立前では内済は認められないはずなのだが、「夫疑相晴」なら「内済願下」つまり内済で訴えを取り下げることが認められていた。 夫が訴え出た場合でも、役人に説得されて「夫疑相晴、申分無之」と記録に書かれて訴えは下げられ、内済離縁で決着する場合がほとんどだという。東慶寺に駆込んだ「かね」の一件でも、妻かねの側に過去に密通があったが詫びて復縁したことが出てくるが(髙木侃2011 p.23)、町奉行遠山左衛門尉は既に内済しているので不問にしている(髙木侃2011 p.25)。 相模野の村方古文書では密通の二人が夫に殺されたのが一件、蒸発が二件、あとの四件はどうやら元の鞘に収まったようである(長田かな子2001 p.194-206)。
    ちなみに中世ではどうだったかというと『吾妻鏡』建長4年10月8日条に「民間の愁訴を休せんがために今日条々を定められる」とある。 その8条が「他人の妻を密懐する事」つまり密通であり「名主の過料は30貫文、百姓は5貫文。女の罪科の事はもって同前」とある。 ここでの名主は御家人・地頭ではなくとも小領主で百姓から税金を取れる立場、かつその名の税金を国衙なり荘園領主へ支払う立場で、百姓は自立した納税者ぐらいの意味である。その下に自立した「家」を持てない奴婢・雑人がいる。 江戸時代の農民とはだいぶ異なるが、男も女も同等で罰金刑で済んでいる。かつ妻も自立した財産を持っていることも示している。
  67. ^ 石井良助は「卯年より巳年9月まで比丘尼を務めたので」と書き、高木侃は「足掛3年比丘尼を務めれば」と書くが、判決のあった貞享5年は辰年であるので、ふりは前年(卯年)のおそらく9月に駆け込んでおり、巳年(翌年)9月までというのはふり在寺中の幕府評定所の判決であろう。
  68. ^ 幕府の裁判は「吟味筋」と「出入筋」の二つに分かれる。 「吟味筋」が刑事事件、「出入筋」が民事訴訟にほぼ相当する。その「民事訴訟」は4つに分かれる。 「本公事」「論所」「金公事」「仲間事」である。
    「仲間事」は訴えても不受理。 借金なんかの「金公事」は受理されるが効果は薄い。結局、「本公事」と「論所」が民事訴訟の中心になるが、ただし裁判で判決ということはほとんどない。 「論所」は山論水論などの土地の境界についての争い事で、村対村、藩対藩のような大きな問題なのだが、その土地の慣例が大きく影響するために法廷はその領主や代官に現地での解決を命じる。要するに調停委員を任命して「和談内済」を進めさせる(笠谷和比古1994 pp.161-163)。
    残る「本公事」は「質地」「小作米」「給金」「家賃」などで、裁判、判決(裁許)まで行くことがある。 裁判となってからも内済の交渉は続けられる。 奉行所もそれを推奨し、場合によっては調停者を任命したりする。 そればかりか「和談内済」を拒む強情な者には威嚇を加えることもある(笠谷和比古1994 p.169)。
    この威嚇の寺社奉行所での実例は1854年(嘉永7年)に満徳寺に駆込んだ「きよ」の一件が(高木侃2012 pp.147-150)、東慶寺の事例では1859年(安政5年)の「てう」の一件がある。 「きよ」の一件では、夫は史料に残る範囲ではとんでもない夫で呼び出しにも応じない。 閉口した満徳寺は寺社奉行に訴える。 寺社奉行所は寺法通りに離婚を申し付けることは簡単だか、それでは遺恨が残るので、かりに妻方が趣意金を払ってでも内済にするようにという意向だった。 しかし夫は応じない。 その強情夫に対して寺社奉行所は仮牢を申し付ける。 さしもの強情夫も屈服して満徳寺へ詫状を出し、満徳寺は寺社奉行への訴えを取り下げる。 奉行所的には双方の「和談」が成立して訴えが取り下げられたのだから「内済」である。
    「立前」としての法は法としてとっておきながら、民事なら圧力を掛けてでも「内済」で済まさせることによって、「立前」と「現実的対処」の調和をとったとみることもできる。 これが幕府の民事訴訟に対する態度である。
    離縁の裁定は慣習法はあっても、お上の裁定でも遺恨を残しやすい。 離縁状は白黒をつける最も良い証拠である。 それを浸透させれば厄介な離婚訴訟が奉行所に持ち込まれることは少なくなる。 持ち込まれても白黒付けるのは簡単になる。
  69. ^ 足掛3年どころか満3年経っても夫が離婚に承伏しない例は後に述べる前橋藩の記録にみえる。
  70. ^ 先に触れた「かね」の一件では東慶寺は寺社奉行に、夫方は町奉行に訴え、寺社奉行と町奉行との間にやりとりがあったが「東慶寺の寺法では犯科もの(犯罪者)は受け付けないはずではないか」との町奉行の主張に理があるとして寺社奉行が折れている(髙木侃2011 p.25)。 必ずしも寺社奉行が強かった訳ではない。 結局「かね」はお咎め(おそらく手鎖、髙木侃2011 pp.25-26)を受け、その後に東慶寺へ引き渡され24ヶ月拘留されている。 東慶寺への駆込みは必ずしも不当な夫に泣く妻ばかりではなかった。 「かね」の一件の東慶寺側文書は宝蔵にて常時展示されている。
  71. ^ 前橋藩はしかたなく郡代に「夫に離縁状を書かせろ」と命じるが、ただし満徳寺に渡すのではなく妻方に直接渡させろと命じている。 このように幕府と各藩、あるいは担当者によってかなりの温度差がみられる。
  72. ^ 江戸木挽町常次郎娘さよ一件。このときの町奉行は遠山の金さんこと遠山左衛門尉である。
  73. ^ 元次元年多摩府中のきよ女の事例。寺役人は姑を呼び出して吟味し、やはり姑が悪いと別宅を建てさせて、息子夫婦は姑舅と別居することで収まった。(井上禅定1955 p.120、井上禅定1995 p.112)
  74. ^ 「出役達書」は「他行止達書」(たぎょうとどめたっしがき)ともいい、意味としてはこちらである。 この日は他所へ行かずに家に居ろと。
  75. ^ このとき夫方は2通の離縁状を作成し、1通は妻に、もう一通はその写しとして東慶寺に差し出す。 この2通とも現存する例が1例だけある。 写しの方は東慶寺旧蔵文書(小丸文書)で、もう一通は研究者の高木侃が古書店から入手した。 同じ筆跡で字配りも同じである。 違うところは、東慶寺に差し出す写しに良質の紙を使い、妻に渡した原本は横帳の白紙を用いていており、折り線や綴じ穴が残っている(高木侃1992 p.132-136)。
  76. ^ 上半分と下半分で字の向きが違うのは紙を二つに折って、その表(右下)から書き始め、裏(左上)に続けたものを開いて展示していることによる。これを「折り紙」と云う。平安時代には非公式な手紙にこの方式を用いたが、江戸時代には正式な書法となった。「折り紙付」とは書画骨董などの鑑定書をこの「折り紙」の様式で書いたことに始まる。
  77. ^ これらの呼称はあくまで現代において寺法の整理・理解の為に付けられた呼称、云ってみれば学術用語であり、当時そう呼ばれていた訳ではない。例えば井上禅定は「寺法書」「拘置御奉書」と呼び、石井良助は単に「奉書」と呼ぶ。
  78. ^ 意訳であり、この原文は井上禅定1995 pp.104-105 にある。
  79. ^ 「仮入牢」で夫が屈服し「寺法離縁状」を書くことに同意したのでも、東慶寺から「下げ」願いが出されれば奉行所的には「内済」である。 夫が「理解」したのであって、強制的に命じてはいない。 強制的に命じないからといって東慶寺への保護が弱まった訳ではない。 これはこの時代、江戸時代後期の幕府の民事訴訟への一般的な姿勢である(笠谷和比古1994 p.169)。 一方、東慶寺からすれば「出役」以降であるので「内済離縁」ではなく、あくまで「寺法離縁」である。
  80. ^ なお、東慶寺に残る文書には趣意金の話は出てこないがこのケースでは妻方は夫に30両の趣意金を渡して寺法離縁を承服させている。 趣意金とは慰謝料・手切金のようなものだが、別れたいと言い出した方が支払う。 これを「離婚請求者支払義務の原則」と呼ぶ。 東慶寺文書は妻の言い分が多く残るが、先に触れた「かね」の一件の様に反対側の文書を突き合わせないと実態はわからず、また両方揃うことは稀である。 束慶寺書と当事者側文書の両方が揃う内済離縁事例で、妻方からの慰謝料が明記されたのは明治3年武州入間郡からの「ます」の事例だけである(髙木侃2011 p.21)。
  81. ^ ちなみにこうひとつの縁切寺満徳寺は駆け込み件数は124件(文書151点)であり、寺に残るものは約40件(文書52点)である(2013.7.28 高木「世界に2つの縁切寺」講演会資料)。
  82. ^ 他の年の日記帳は関東大震災他で失われた。
  83. ^ 縁切を求めて駆込んだ女の脱走は5件あるが断片的な記録しか残っていない。 ただし内一件は円覚寺の「留帳」に詳細な記録が残っており、その一件は浄智寺の長老が貰い受ける(取り扱う)ことで決着している(高木侃1997 p.781)。
  84. ^ 普代の寺役人石井家の子孫が祖母の話として「駆け込みが一人あると一身代をなくしたそうだが、駆け込み女には大家の娘さんなどもいて、振袖をきて踊りを教えてくれたり、贅沢三昧なことをしていた・・・。 しかしなかには貧乏な女も入っていた」と伝える(高木侃1992 p.177)。
  85. ^ 日銀・貨幣博物館「江戸時代の1両は今のいくら?」というペーパーで、1838年(天保9年)頃、19世紀前半の関東の農村の一例として賃金は武家下女奉公人が年間2~3両、町方奉公人は男2両・女1両(奉公人は衣食住付)、通いの料理人の賃金は1日300文(この頃1両は6500文で22日で1両)。1両で買えるものは米150kg(1石)、蕎麦406杯(1杯16文)、饅頭2170個(1個3文)、卵930個(1個7文)、傘26本(1本250文)などをあげている。
  86. ^ 実際には北西だが厄介なのでここでは建物の正面を南側とみなし、正面側の玄関から上がった先なので北ということにする。
  87. ^ 狩野探幽作の「八仙人の手違い」。 今は裏千家今日庵の寒雲亭にある。
  88. ^ 裏千家は千利休から5代目(裏千家としては2代目)にあたる常叟宗室以降、幕末に至るまで茶道指南として久松家に仕官していた。
  89. ^ 堀越宗円は女流茶人として有名で、女性として初めて「老分」となる。 老分は裏千家の重要役職で、各時代の財界人・文化人で、茶道に造詣の深い者が任ぜられる。
  90. ^ 利休の作とされる妙喜庵の待庵は二畳という狭小な茶室ということで有名だが、実際には4畳半を中心として、寒雲亭の様に8畳の茶室もあり「広間」と呼ばれる。
  91. ^ 別室に「小間」のお茶室もある。
  92. ^ 貴人口は元々は身分の高い客の出入のために設けたもので、「にじり口」のように背をかがめてにじるようにして入るのではなく、立ったまま入れる入口。
  93. ^ 下座床(げざどこ)は、亭主が茶をたてる点前座の後方に床の間を設けたもの。
  94. ^ 向切(むこうぎり)は点前畳(点前座の畳)に切る入炉だが点前畳の右上角、客畳側に寄せて切る。 その逆、点前畳の左上角に炉を切ることを隅炉(すみろ)と云い、点前畳に接した隣の畳に炉を切ることを出炉(でろ)と呼ぶ。
  95. ^ 前田青邨の墓は横浜市の總持寺にもある。
  96. ^ 状況証拠はいろいろあり、ほぼ間違いないとは思われているが確実な証拠はない。これを大平寺本尊と記す史料は、1点は観音堂泰平殿のみのと思われる棟札銘と2点の古文書であるが3点とも江戸時代のものであり、それぞれ氏名の誤記や虚偽の記述がある(三山進1979 pp.125-128)。例えば「その由来東鑑に委し」などである。「吾妻鑑」に大平寺の記事はない。 棟札銘にはこの聖観音立像を「大宗国陳和慶(卿)之彫刻」と記すが、陳和卿は鎌倉時代初期に東大寺の重源の元で働いた工匠で、源実朝の渡宗船造営に関わっている。時代的に付合しない。また後世中国風の仏像を陳和卿作と称することが流行っているので信憑性はない(鎌倉市史・史料編34 史料番号346 pp.353-354、山田泰弘1976 pp.34-35)。 この棟札銘から判ることは、約300年後の江戸時代初期にはそう伝えられていたということだけである。
  97. ^ 裳(も)とも、腰巻き、巻スカートのようなもの。
  98. ^ 汗衫(かんさん)とも。シャツのようなもの。ただし片方の肩にひっかける。
  99. ^ 大衣は、インド仏教で修行僧が私有を許された三衣(さんえ、さんね)の一で、九条ないし二十五条のものをいう。
  100. ^ ただし全てが雌型に詰めて作ったとは思えず、単純な形の葉などは手作りして貼り付け、篦(へら)で筋を付けたようにも見られる(山田泰弘1976 p.108)。
  101. ^ 良く見ると鮮明な赤が現れているところがある。 ただし、通常展示の状態では判らず、ギャラリートークなどのときにペンライトで照らしてもらってやっと判るような小さいものである。 この赤は立像が造られたときから表面に現れていたものではなくて、全体に金泥を塗ったときに赤い下地の蔓の部分が白下地の他の部分とは違った鮮やかな黄金色となることを計算しての金箔の下地処理と考えられている(小口八郎1976 p.108)。
  102. ^ 新編相模国風土記稿(p.212) には「丸香炉」としてこの初音蒔絵火取母の絵が描かれており「天秀尼所蔵の品」とある。 この取材時点では寺側はそう説明したと思われる。他に「梨子地箱」とあるものは現存する。 「東照宮より天秀尼に賜う所なり」とされる葵の御紋の「香盆」の絵があるが、少なくとも宝蔵に展示されたことはない。
  103. ^ 1639年(寛永16年)の鎖国以降もオランダ、中国を通じて大量の漆器がヨーロッパに輸出されたが、その頃のものは様式が異なり「南蛮漆器」とは呼ばず「近世の輸出漆器」と呼ばれる。
  104. ^ 「新編相模国風土記稿」の東慶寺寺宝の中には出てこない(新編相模国風土記稿 pp.211-212)。 もっともそこに寺宝としてあげられたのは香合、香炉を中心とした8点だけである。 東慶寺は関東大震災で土蔵が倒壊するなどして多くが損傷・紛失したが、それでも現在60数点が残る。 先々代住職井上禅定は「恐らく異教の器物故手にふれず故意に書き上げなかったものであろう」と想像する(井上禅定1955 p.106)。 キリスト教の禁が解けたあとの1903年(明治36年)東慶寺「什器控」には「ぶどう模様丸弁当箱」とあるので、異教の器物とは認識されていなかった可能性もある。
  105. ^ 東慶寺旧蔵文書としては、他に郷土史家の小丸俊雄が入手した170通の旧蔵文書があり、鎌倉中央図書館に寄贈され現在は鎌倉国宝館に収蔵されている。 これは1950年(昭和25年)に小丸俊雄が鎌倉の経師屋から入手したものである。 経師屋の云うには亀ヶ谷の尼寺英勝寺から出てきたもので、関東大震災のときに既に無住であった英勝寺の倉が潰れて中の書付類が雨ざらしになっていたのを貰ってきたという。 荷車に二台、目方にして40貫(160kg)ぐらいあったというが、葉山の御用邸などの襖の裏貼に使ってしまい、残っていたのは風呂敷包みひとつ分であった(高木侃1997 pp.788-792)。 何で英勝寺にあったのかは判らない。 そのほか関東大震災直前に穂積重遠が翻刻した分が『離縁状と縁切寺』 ある。 それらの一部は『鎌倉市史・史料編』 に収録されているが、全体は『縁切寺東慶寺史料』にある。
  106. ^ 寺の公式サイトには「半跏像」とあるが、ここでは文化財指定名称にしたがい「坐像」とする。本像は右脚先を左腿に乗せていないため、厳密な意味の「半跏像」ではない。
  107. ^ 禅宗と律宗は対立するものではなく、むしろ蘭渓道隆は入宋中の泉涌寺四世の月翁智鏡との縁で日本に渡来して一時期は泉涌寺におり、蘭渓道隆は泉涌寺の僧と鎌倉に来た可能性が指摘されている(箱崎和久1999 p.114)。 律宗でも叡尊忍性ら南都律は日本の旧仏教の復興として起こり、宋とのつながりはあまりなく、仏像もインドから中国に渡り更に日本に伝わったという「三国伝来の釈迦像」嵯峨の清涼寺の仏像を模倣する。 「清凉寺式釈迦像」と呼ばれるものである(鎌倉の仏教1992 p.105)。
    それに対して泉涌寺俊芿からの北京律は南宋直輸入で、聖観音菩薩坐像(通称:楊貴妃観音像)、木造韋駄天立像、木造伝月蓋長者立像が南宋直輸入であるように仏像の様式は南宋風である。 当時の宗派は今のように固まったものではなく、特に俊芿の律宗は天台・真言・禅・浄土の四宗兼学で有名である(箱崎和久1999 p.124、鎌倉の仏教1992 p.94)。 蘭渓道隆とともに鎌倉に来たのかもしれないと思われているのは後に泉涌寺6世長老となる願行憲静(けんじょう)である。 あるいは建長寺の造営にあたって蘭渓道隆が泉涌寺に頼んで派遣してもらったのかもしれないが、いずれにせよ建長寺建築当時鎌倉におり、そして東寺五重塔大勧進ともなって建築工事管理に腕を振るい、北京大工・大蔵一族や、のちに関東でも活躍した物部氏鋳物師集団などの奈良・京都の工匠集団を率い、京と鎌倉を行き来しながら文化・技術の伝搬交流に大きな役割をはたしたと思われている。なお、憲静の外護者は霜月騒動で滅んだ安達泰盛、つまり開山覚山尼の父である(箱崎和久1999 p.117)。
    泉涌寺派律宗と鎌倉幕府との結びつきは、この願行憲静とその高弟智海心慧が大きな役割をはたす。 鎌倉の律宗は極楽寺の忍性(南都律)が有名だが、泉涌寺系(北京律)も智海心慧が開山覚山尼の子北条貞時の庇護のもとに覚園寺を開き、律宗は幕府の後ろ盾で全国に勢力を伸ばしていく。 なお、律宗は忍性非人救済がよく知られるが、そうした下層民への布教の結果、工人集団をも組織し、同時に東大寺大勧進としても工人集団も支配下に置く。その忍性の後の東大寺大勧進は覚園寺開山の智海心慧である。 智海心慧は1299年(正安元年)に泉涌寺、室生寺を含む13ヶ寺を幕府の祈祷所とすることを願い認められている(箱崎和久1999 p.118)。
  108. ^ ただし白衣観音的なリラックスした姿態の像は泉涌寺には残っていない。 木造聖観音立像にあるような土紋装飾もない。 盛上装飾に金箔の截金はある。
  109. ^ 京都泉涌寺の楊貴妃観音、韋駄天像、月蓋長者像、そして横須賀清雲寺の滝見観音像は南宋伝来のものである。 磐城禅長寺の滝見観音像は宋風の濃い観音像であるが、胎内造像銘から1410年(応永17年)仏師院尊作とされる。(小口八郎1976 p.112, p.114)

出典

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