北条時氏
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北条 時氏(ほうじょう ときうじ)は、鎌倉時代前期の北条氏の一門。鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男。
注釈
- ^ 『吾妻鏡』宝治元年3月2日条。
寳治元年三月大二日乙卯。今曉寅刻。足利宮内少輔泰氏室卒去是左親衛妹公也云々。今日可摺寫不動并慈慧大師像之由。被仰政所之間。有其沙汰云々。
この記事から、左親衛(=北条時頼)の妹が足利泰氏室となっていたことが窺える。『尊卑分脈』の北条氏系図上で、北条時氏(從五下・修理亮)の娘(=時頼の妹)の項に「源頼氏母」と明記されており(『尊卑分脈』〈国史大系本〉第4篇 p.18)、足利氏系図でも足利頼氏の傍注に「母修理亮平時氏女」との記載が見られる(『尊卑分脈』〈国史大系本〉第3篇 p.251)。従って、この女性は泰氏の妻となって頼氏を生んだ、頼氏の母であったことが明らかである。『吾妻鏡』の記事に従えば、この女性は兄の時頼が生まれた安貞元年(1227年)以後、時氏が寛喜2年(1230年)に28歳で亡くなるよりも前に生まれたことになり、仮に時頼と同年の生まれだとしても数え年14歳で頼氏を生んだということになる[4][5]。 - ^ 六波羅探題は北方と南方の二名体制が常であった。
出典
- ^ 安田元久編 1990, p. 542.
- ^ a b c 安田元久編 1990, p. 543.
- ^ a b c d e f 高橋慎一朗 2013, p. 2.
- ^ 臼井 2013, p. 64.
- ^ 小谷 2013a, p. 119.
- ^ 高橋慎一朗 2013, p. 1.
- ^ a b 『鎌倉・室町人名事典』 1990, p. 543.
- ^ 上横手雅敬 1988, p. 26.
- ^ 上横手雅敬 1988, p. 38.
- ^ a b c 上横手雅敬 1988, p. 75.
- ^ a b c 『鎌倉・室町人名事典』 1990, p. 542.
- ^ 高橋慎一朗 2013, p. 6.
- ^ 石井清文 2020, p. 134–141.
- ^ a b c d 高橋慎一朗 2013, p. 12.
- ^ 石井清文 2020, p. 141–143.
- ^ 石井清文 2020, p. 143–144.
- ^ 石井清文 2020, p. 150.
- ^ 上横手雅敬 1988, p. 74.
- ^ 石井清文 2020, p. 154, 161–162.
- ^ 高橋慎一朗 2013, p. 13.
北条 時氏(ほうじょう ときうじ)
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「愛だけ探していられない」の記事における「北条 時氏(ほうじょう ときうじ)」の解説
政治家秘書。美穂が働く歯科の患者。七三分けで眼鏡をかけた真面目過ぎる青年。美穂のことを好きになる。代議士の申告漏れによる不正所得の責任を負わされ辞職。美穂の家に押しかけ、主夫業をこなす。美穂の超絶テクでもたたないEDのため肉体関係はない。
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