北条政子の役割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 17:38 UTC 版)
『吾妻鏡』の記述によれば、比企氏討伐も頼家の幽閉も政子の「仰」であったとされる。また事件の発端となった頼家死後の一幡と千幡の諸国守護の分掌も政子の積極的な関与が見て取れる。実朝の代になっても様々な場面で政子が決定的な役割を担っていることも多く、北条氏を含めた東国御家人勢力とは別個に調停者としての政子が存在していたとも考えられる。 また、この時期の政子の地位について注目すべきものとして以下の二つがあげられる。一つは、頼朝の後家として頼朝の法事を含め幕府の宗教体制の中心的存在であったこと。二つは、幕府の実務官僚であった大江広元ら京下りの吏僚たちを掌握していたことである。彼らは幕府内にあって将軍権力と有力御家人の間の中間勢力をなしていたと言われており、彼らを掌握していたからこそ政子は調停者として振る舞うことが出来たとも考えられる。 以上をふまえれば、頼朝死後の鎌倉幕府将軍の権力は、将軍職は頼家が継いだものの、生前の頼朝がもっていた地位と権力は実際は政子と頼家により分掌されていたと考えることもできる。そして、政子の関与により頼家から実朝への将軍職委譲がなされたという事件の側面をみることができるとともに、鎌倉幕府の権力構造を考える上で、のちの執権職につながる役割を考察する材料となる。
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