北条改姓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:23 UTC 版)
初めて北条氏を称したのは早雲ではなく、2代氏綱とみられている。早雲は、『備中伊勢氏系図』に、伊勢備中守貞定の子・盛時で、伊勢駿河守貞雅の養子になり、伊豆に下って北条氏の祖になったとされている。 黒田基樹は、伊勢氏の宗家は室町幕府の要職であった政所の長官である執事を代々世襲していたにもかかわらず、「北条」に改姓した理由として、上杉氏ら関東の旧来勢力から伊勢氏は”外来の侵略者(他国の兇徒)”とみなされており、それまで相模守護であった扇谷上杉氏に代わる相模国主としての正当性を得るために、かつて鎌倉幕府を支配した代々の執権北条氏の名跡を継承した、という体裁を宣言したからだとしている。 なお、山内・扇谷両上杉家や長尾上杉家などの北条家の敵対勢力は、後年まで旧名字の「伊勢」で呼び続けた。対する北条家側も、長尾上杉家のことを旧名字の「長尾」で呼び続けた。 氏綱から名乗った「左京大夫」、氏康から名乗った受領名「相模守」も、鎌倉北条氏で歴代の執権が名乗った古例を踏襲したものである。以後、当主が左京大夫を名乗り、隠居後に相模守を名乗るのが通例となった。 執権北条氏との血統的なつながりは、以下に示す通りである。 北条時政―時子(足利義兼室)―足利義氏―吉良長氏―今川国氏……今川泰範―今川範政……今川氏親―瑞渓院(北条氏康室)―北条氏政 黒田は、北条氏綱の正室であった養珠院殿が、後北条氏家臣で鎌倉時代最後の北条得宗・北条高時の末裔を名乗っていた横井氏出身の可能性を指摘している。 小和田哲男は北条氏は京都との接触を最低限に止め、平将門以来関東にあった「中央からの半独立」という願望を具現化することを国是としていたとする。関東管領職の継承に固執したのもそのためで、関東の地に関東公方を盟主とした独立国家を目指していた、としている[要文献特定詳細情報]。 佐々木健策は、氏綱が後妻を近衛家から迎えていること、相模国の守護所を目指していた小田原の城下町形成の過程で、京都や奈良の職人を積極的に招聘していたことなどを挙げ、関東公方はもとより室町幕府や朝廷との関係を自らの威信として利用することで、関東における主導権を確立しようとしたと説いている。 なお、北条への改姓の正確な時期については、箱根権現の宝殿の修造完成を機に作成された大永3年(1523年)6月12日付の棟札が「伊勢」の名乗りで記され、同大永3年(1523年)9月13日に書かれた公家の近衛尚通(後に娘が氏綱の後室となる)の日記『後法成寺関白記』の記述には「北条」の名乗りが登場していることから、その3か月の間に行われたと推定されている。また、永正15年(1518年)7月に小弓公方として自立した足利義明を、共に支援することで同意したために成立した伊勢(北条)・扇谷上杉両家の和睦がこの時期に破綻して、山内・扇谷両上杉家の同盟が成立し、さらに伊勢(北条)・扇谷上杉両勢力の境目にあった小机城一帯が直後に北条領になったと推定されることから、北条改姓は扇谷上杉家との関係破棄の一環として行われた、とする見方もある。
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