両上杉氏との同盟と対外勢力との戦い
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「武田信虎」の記事における「両上杉氏との同盟と対外勢力との戦い」の解説
大永年間には対外勢力との抗争が本格化する。信虎は両上杉と同盟し伊勢氏(後北条氏)と敵対する信縄期の外交路線を継承し、大永4年(1524年)2月には両上杉氏支援のため都留郡猿橋(大月市猿橋町猿橋)に軍勢を集め、相模国奥三保(神奈川県相模原市)へ侵攻する。同年3月にも武蔵国秩父へ出兵し、関東管領の上杉憲房と対面している。なお、憲房は3月25日に死去し、家督相続を巡り混乱が生じている。『高白斎記』によれば同年7月20日には北条方の武蔵岩付城(埼玉県さいたま市岩槻区太田)・太田資高を攻める。 信虎は遠征から帰国すると翌大永5年(1525年)にかけて北条氏綱と和睦する。まもなく氏綱は越後国の長尾為景と連携して上野侵攻を企図し信虎に領内通過を要請するが、信虎は山内上杉氏に配慮してこれを拒絶し、和睦は破綻する。『勝山記』によれば、信虎は山内上杉氏の家督を預かった上杉憲寛とともに相模津久井城(相模原市緑区)を攻撃している。『勝山記』『神使御頭之日記』によれば、同年4月1日には諏訪頼満に追われた諏訪大社下社の金刺氏と推定されている「諏訪殿」が甲府へ亡命し、信虎はこの「諏訪殿」を庇護して諏訪へ出兵し、8月晦日に諏訪勢と甲信国境で衝突するが、武田方は荻原備中守が戦死し大敗した。 大永6年(1526年)には梨の木平で北条氏綱勢を破っているが、以後も北条方との争いは一進一退を繰り返した。『勝山記』によれば、大永6年には信虎上洛の風聞が流れたが、これは実現していない。翌大永7年(1527年)2月には将軍足利義晴と細川高国が京都を脱出して近江国へ逃れる事件が発生し、信虎は京へ使者を派遣している。将軍義晴は諸国の大名・国衆に上洛を促しており、信虎に対しても4月27日付の御内書で上洛を要請し、6月19日付の御内書では上杉憲寛・諏訪頼満・木曽義元に対して信虎上洛への助力を命じている。 同年6月3日には信濃佐久郡の伴野貞慶の要請により信濃へ出兵する。『勝山記』によれば信虎の出兵に対して佐久郡の国衆・大井氏らは和睦を受け入れたという。7月には駿河国で今川氏親が死去し氏輝が家督を相続すると、今川氏と一時的に和睦する。 享禄元年(1528年)に信濃諏訪攻めを行うが、神戸・堺川合戦(諏訪郡富士見町)で諏訪頼満・頼隆に敗退する。『勝山記』によれば、信虎は享禄3年(1530年)には扇谷上杉氏の当主・上杉朝興の斡旋で山内上杉氏の前関東管領・上杉憲房の後室を側室に迎えた。憲房の後室は朝興の叔母にあたり、これは扇谷上杉氏との関係を強化する縁組であると考えられている。年次は不明であるが、信虎は両上杉氏と関係の深い下総国の小弓公方・足利義明とも外交関係を持っている。 こうした信虎と両上杉氏との関係強化は、相模国の後北条氏(伊勢氏が大永3年(1523年)に北条改姓)との対立が激化し、上杉朝興が後北条領の江戸へ侵攻すると、信虎は小山田氏の関東派遣を企図するが、小山田勢は甲相国境の都留郡八坪坂(上野原市大野)で北条勢に敗退し、扇谷上杉氏との連携に失敗する。 一方で、武田家中では上杉憲房の娘を武田家に迎えることに対する反発が起こり、享禄4年(1531年)正月21日には栗原兵庫・今井信元・飯富虎昌らが甲府を退去して御岳(甲府市御岳町)において信虎に抵抗し、韮崎(韮崎市)へ侵攻した信濃諏訪郡の諏訪頼満と同調する。さらに西郡の大井信業も国人勢に呼応するが、信虎は2月2日の合戦で大井信業・今井備州らを滅ぼし、4月12日には河原部合戦(韮崎市)において栗原兵庫ら国人連合を撃破した。さらに天文元年(1532年)9月には今井信元に対して攻勢を強め、本拠である獅子吼城(浦城、北杜市須玉町)を明け渡させた。 『勝山記』によれば、享禄元年(1528年)には甲斐一国内を対象とした徳政令を発している。この徳政令は発令時期が不明だが、東国の戦国大名が発令した初めての事例である他、土一揆の勃発以前に発令されている点からも注目されており、『勝山記』では同年夏からの自然災害の頻発が記録されていることから収穫期の秋に発令されたものであると考えられている。『勝山記』によれば、享禄2年(1529年)には小山田氏との関係が悪化し、信虎が郡内への路地封鎖を行う事件が発生する。このときは小山田信有の生母が遠江国に姉のもとを訪ねて周旋し、路地封鎖は解除された。 天文2年(1533年)には嫡男・晴信の正室に上杉朝興の娘を迎え、天文3年(1534年)11月に輿入れした。これにより武田氏と扇谷上杉氏は一時的に重縁関係となるが、朝興の娘が死去したため、これは解消された。 天文4年(1535年)には今川攻めを行い、甲駿国境の万沢(南巨摩郡南部町万沢)で合戦が行われると、今川と姻戚関係のある後北条氏が籠坂峠を越え山中(南都留郡山中湖村)へ侵攻され、小山田氏や勝沼氏が敗北している。同年には諏訪氏と和睦する。
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