たいら‐の‐まさかど〔たひら‐〕【平将門】
読み方:たいらのまさかど
[?〜940]平安中期の武将。高望(たかもち)の孫。下総(しもうさ)を本拠として土着豪族の伝統的勢力を継承、伯父国香を殺し、関東の最強豪族となった。下総猿島(さしま)に王城を営み、文武百官を置いて新皇と称したが、平貞盛・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に攻められて敗死。
海音寺潮五郎の長編歴史小説。昭和29年(1954)から「経済産業新聞」に連載されたものが初出。単行本は、第一部「帰去来の巻」が昭和30年(1955)、第二部「乱離の巻」が昭和32年(1957)刊行。戦前・戦中の皇国史観により、逆臣として不当に評価されてきた
の歴史的位置づけを正そうとした作品。
真山青果の戯曲。大正14年(1925)、雑誌「中央公論」1月号に掲載。昭和2年(1927)2月、井上正夫らが本郷座にて初演。
平将門
平将門
平将門
平将門
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平 将門(たいら の まさかど、旧字体:平󠄁 將門、延喜3年〈903年〉? - 天慶3年2月14日〈940年3月25日〉)は、平安時代の関東の豪族。
注釈
- ^ 笏を逆さに持たすなど作法に反し意図的である。没後しばらくして将門の娘が建立したとされる茨城県坂東市の国王神社の木造平将門像(茨城県指定有形文化財、国王神社神体)とは、肩や筋骨質の体つき、目の大きさ、顎の形等、印象が違う。
- ^ a b 桔梗と呼ばれる女性の伝承とその終焉の地(桔梗塚)も各地にあり彼女の、出自、将門ならび藤原秀郷との関係、将門をどのように裏切ったか、裏切りをしていないか、などが異なっていて定説は無い。
- ^ 一部の書籍(特に児童・生徒向けに書かれた物では疑問符付き)で903年とするが、これは将門が火雷天神(菅原道真)の生まれ変わりとするとの伝承からきていると考える者もいる。梶原正昭は、将門が反乱を起こした際に藤原忠平に宛てた書状の中に「(私こと将門は)少年時代にあなた様の家臣となって以来数十年云々」という意味の記述があることから、数十年を40年と仮定すると将門が忠平の家臣となったのは899年頃、その頃の将門の年齢は15 - 6歳であろうか、との可能性を示唆している[2]。
- ^ 『尊卑分脈脱漏』『坂東諸流綱要』等によると、「犬養春枝女」または「県犬養春枝女」となっている。
- ^ 『歴代皇紀』の「将門合戦状伝」には、始め伯父の平良兼との間で争い、次に平真樹なる者に誘われて平国香や源護らと事をかまえるに至ったとしている。
- ^ 『将門記』では「介経基ハ未ダ兵ノ道ニ練レズ。驚キ愕イデ分散ス」と述べられている。
- ^ 『摂政忠平宛将門書状』には、「維幾の子為憲が公の威光を傘に猛威をふるったため、玄明の愁訴によってそれを正そうとして常陸に赴いたところ、為憲と貞盛が示し合わせて戦いを仕掛けてきた。」とある。
- ^ ただし『将門記』では興世王の献策に対して「將門ガ念フ所モ、啻斯レ而巳。(中略)苟モ將門、刹帝ノ苗裔、三世ノ末葉也。同ジクハ八國ヨリ始メテ、兼ネテ王城ヲ虜領セムト欲フ。」と答えたとしているが、この答えは後に出てくる『摂政忠平宛将門書状』の内容とは矛盾する。
- ^ 海音寺潮五郎は『悪人列伝 古代篇』にて、これを将門の無知の証拠として指摘している[6]。
- ^ 『扶桑略記』では、将門の戦死を貞盛の放った矢により負傷落馬し、そこに秀郷が馳せつけ首を取ったとされ、『和漢合図抜萃』では、秀郷の子の千常が将門を射落とし首級をあげたとされている。
- ^ こめかみの「こめ(米)と俵藤太の「俵」を掛け合わせたもの。
出典
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- ^ 梶原正昭 1976, pp. [, 要ページ番号],
- ^ 中川克一『山陽外史』至誠堂、1911年、[要ページ番号]頁。
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- ^ 海音寺潮五郎『悪人列伝』 古代篇、文藝春秋〈文春文庫〉、2006年、[要ページ番号]頁。ISBN 4167135485。
- ^ 川尻秋生 2009a, p. 13.
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- ^ 川尻秋生 2009a, p. 22-23.
- ^ 早川由紀夫、小山真人:日本海をはさんで10世紀に相次いで起こった二つの大噴火の年月日 : 十和田湖と白頭山 Bulletin of the Volcanological Society of Japan 43(5) pp.403-407 1998-10-30, ISSN 0453-4360
- ^ 宮瀧交二 2009, p. 126-133.
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- ^ a b 乃至政彦 2019, p. 44.
- ^ “大河ドラマ「風と雲と虹と」”. NHK. 2021年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月21日閲覧。
平将門(たいらのまさかど)
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「神様の御用人」の記事における「平将門(たいらのまさかど)」の解説
非業の死を遂げた怨霊。御用は「自身を討った藤原秀郷の末裔を呪う協力をしてほしい」。
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平将門
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「O・TO・GI 〜百鬼討伐絵巻〜」の記事における「平将門」の解説
罪人の亡霊。かつて朝廷に仇なしたが、死した後もさらに妖鬼となって目的を遂げようとする。史実の平将門の最期を反映してか首無しの鎧武者の姿をしている。
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平将門
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詳細は「承平天慶の乱」を参照 平将門は、一族の内部抗争を勝抜き坂東(関東一円)を制圧すると、天慶2年(939年)、上野国庁で即位の儀礼を行った。八幡大菩薩の使いを称する巫女が宣託を告げ、興世王から「新皇」の号を進呈されたという。新皇位への即位は京都朝廷へ奏上を行っており、相対する新たなる天皇という意味で新皇を名乗った。しかし将門は、敵対勢力への対応に忙殺されて翌年には討たれているためその政治目的は不明瞭であるが、独自に諸国受領などの文武百官を任命するなど支配機構の確立も行っている。新皇即位など一連の行動を証拠として、「坂東独立王国」を築こうとしていたとする説[要出典]が主張されている。 なお平将門の出身である桓武平氏は、臣籍降下した皇胤であり、将門は桓武天皇の玄孫(一説には来孫)にあたる。
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平将門
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「デジタル・デビル物語 女神転生II」の記事における「平将門」の解説
爆心地に埋もれた王城にて、主人公たちを魔界へ誘うべく待っていた亡者。
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平将門(たいらのまさかど)
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「ノラガミ」の記事における「平将門(たいらのまさかど)」の解説
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平将門(たいら の まさかど)
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「帝都物語」の記事における「平将門(たいら の まさかど)」の解説
帝都東京を守護する亡霊。ストーリーの根幹をなす最も重要な人物。
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