百済王貞連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/14 12:12 UTC 版)
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 貞運 |
官位 | 従五位下・上総介、武蔵守 |
氏族 | 百済王氏 |
百済王 貞連(くだらのこにきし さだつら / ていれん)は、平安時代中期の貴族。
興世王は平将門に謀反を勧めた人物とされており、百済王貞連は平将門の乱の遠因を作った人物とされる[1]。
経歴
承平9年(939年)5月には武蔵守として武蔵国に下向した(なお、類聚符宣抄第八には「前上総介・従五位下」と記されているため、923年から939年の間に上総介を拝任し、従五位下に叙されたことがわかる)。しかし、貞連は武蔵権守・興世王と不仲で[注 1]、貞連は興世王を国庁の会議に全く列席させなかったため、興世王は任地を離れて下総国の平将門のもとに身を寄せた。これが平将門の乱の遠因となった[2]。
補注
注釈
- ^ 『将門記』に興世王と百済王貞連は「姻婭ノ中」(=姻戚関係)とあり、『楊守敬旧蔵本』に「姻婭」に「アヒムコ」と附訓を施している事から、お互いの妻が姉妹であったとみられる。
出典
- ^ 日本人名大辞典+Plus, 精選版 日本国語大辞典,朝日日本歴史人物事典,デジタル版. “興世王(おきよおう)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2025年4月14日閲覧。
- ^ a b 上野利三『「百済王三松氏系図」の史料価値について : 律令時代の帰化人の基礎的研究』慶應義塾大学法学部、1983年、385-407頁 。
関連項目
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