藤原忠文とは? わかりやすく解説

ふじわら‐の‐ただふみ〔ふぢはら‐〕【藤原忠文】

読み方:ふじわらのただふみ

[873〜947]平安中期公卿民部卿平将門の乱では征東大将軍藤原純友の乱では征西大将軍に任ぜられたが、その功に恩賞与えられなかったのは藤原実頼反対のためと恨み死後も実頼の子女に祟(たた)ったといわれ、悪霊民部卿異名がある。

藤原忠文の画像
本朝百将伝」より/国立国会図書館

藤原忠文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/04 02:06 UTC 版)

 
藤原 忠文
藤原忠文(菊池容斎前賢故実』)
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 貞観15年(873年
死没 天暦元年6月26日947年7月16日
別名 宇治民部卿、悪霊民部卿
官位 正四位下参議、贈正三位中納言
主君 宇多天皇醍醐天皇朱雀天皇村上天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原枝良、母:息長息継の娘
兄弟 忠文、忠舒、忠家、忠衡
滋望
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藤原 忠文(ふじわら の ただぶみ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿藤原式家参議藤原枝良の三男。官位正四位下・参議、正三位中納言宇治民部卿とも呼ばれる。

経歴

内舎人修理少進を経て、醍醐朝延喜4年(904年従五位下に叙せられる。のち、左馬頭左衛門権佐右近衛少将等の武官を務める一方で、紀伊権介播磨介讃岐介と地方官を兼ねた。

延長4年(926年従四位下摂津守に叙任されて以降、丹波守大和守と醍醐朝末から朱雀朝前期にかけて畿内の国司を務める。承平7年(937年)修理大夫として京官に復すと、承平8年(938年正四位下に叙せられ、天慶2年(939年参議に任ぜられ公卿に列した。

天慶3年(940年関東で反乱を起した平将門を追討するために、右衛門督征東大将軍に任じられ、68歳の高齢ながら将門追討の責任者となる。しかし、忠文が関東に到着する前に将門は平貞盛藤原秀郷らに討たれた(平将門の乱)。翌天慶4年(941年)今度は瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友を追討するために征西大将軍に任ぜられているが、こちらも大蔵春実らの活躍により、忠文に戦功の機会はなかった(藤原純友の乱)。乱後は民部卿を兼ねている。

村上朝天暦元年(947年)6月26日に薨去享年75。最終官位は参議民部卿正四位下兼行紀伊権守。没後、中納言正三位を贈られている。の名手であった。

逸話

忠文は老齢を押して平将門の乱鎮圧のために東国へ向かったものの、東国到着の前に将門が討伐されてしまったために、大納言藤原実頼が嘉賞に反対し、忠文は恩賞を得られなかった。忠文はこれに不満を持ち、辞任を申し出るが許されなかった。その後、天暦元年(947年)6月に忠文が没すると、同年10月に実頼の娘・述子(村上天皇女御)が、11月には実頼の長男・敦敏が相次いで死去したために、忠文の怨霊が実頼の子孫に祟ったと噂されたという。このことから忠文は悪霊民部卿とも呼ばれ、その霊を慰めるため宇治末多武利神社が創建された。

近衛府で宿直を務めた際、馬寮から取り寄せた一頭の馬を枕元に立てて、馬がを食べる音を聞く事で、眠らないようにしていたという[1]

官歴

公卿補任』による。

系譜

脚注

  1. ^ 古事談』第四,勇士
  2. ^ a b 『近衛府補任』
  3. ^ 『系図纂要』

出典

  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
軍職
先代
源清蔭
右衛門督
940 - 942
次代
源高明



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