非業の死
ひごう‐の‐し〔ヒゴフ‐〕【非業の死】
非業の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 23:36 UTC 版)
イギリスに戻り、何作もの作品に出演していたが第二次世界大戦が勃発。各地で兵士達を応援する講演のため飛び回った。1943年6月1日 、ハワードが搭乗したポルトガルのリスボン発イギリスのホワイトチャーチ行きのBOAC777便(ダグラスDC-3、機体記号G-AGBB)は、ビスケイ湾の公海上でドイツ空軍のユンカースJu 88に攻撃され墜落。この事件でハワードを含む乗員乗客17人全員が死亡した (レスリー・ハワード搭乗機誤撃事件)。 第二次世界大戦当時のポルトガルは中立国で、リスボンは枢軸国と連合国の捕虜交換の拠点となっており、そのため各国のスパイが暗躍する舞台となっていた。事故当時イギリスのチャーチル首相は仏領アルジェリアのアルジェを訪問中で、たまたまハワードのマネージャーがチャーチルとよく似た年格好をしており、またハワード本人も首相のボディガードとよく似ていたため、ドイツのスパイがこの二人をイギリスへの帰途にある首相一行だと誤認、事故機を首相搭乗機として追撃したものといわれる。 なおドイツ諜報部はハワード本人にもスパイ活動をしている疑いをかけていたが、実際にそのような事実があったことを裏付ける資料はない。
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非業の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/06 07:01 UTC 版)
日立が4シーズン全勝優勝を遂げ、第19回日本リーグがスタートする。ハイマンは両膝半月板の具合が悪く、スタメンを外れ途中出場に留まっていた。 1986年1月23日夜、打倒日立に燃えるハイマンは秘策として守備フォーメーションの変更を、宿泊先である松江市内のホテルでダイエー監督の米田一典に具申。スタメン起用を申し入れ、「選手生命をかける」とチームメートに誓った。 1月24日(金曜日)、松江市総合体育館の第二試合・ダイエー対日立の試合が始まる。日立は連勝記録を伸ばし88連勝としていた。ハイマンはスタメンで出場し、1セットオールとなった第3セット7-6とリードした場面でベンチに退く。程なくベンチで倒れたが、現場の人は誰も緊急蘇生処置を知らず、茫然としていたという。その後、松江赤十字病院へ搬送されたが、救急隊員によれば「意識不明で脈拍が微弱」であったという。集中治療室で心臓マッサージが施されたが、21:36(JST)に試合結果を知らぬまま帰らぬ人となった。死因は当初急性心不全と発表されたが、その後のアメリカ側の検査でマルファン症候群による大動脈解離と判明した。 遺体は1月24日深夜に陸路で大阪に搬送され、ダイエー練習場でファンや関係者の弔問を受けた後、27日に伊丹空港から無言の帰国。 アリー・セリンジャー(当時アメリカ合衆国女子代表監督)夫人に宛てた手紙が、試合会場の更衣室に残されており、次のように記されていた。 午前中の練習は上々、ベストコンディションです。米田監督も私の具申した守りのフォーメーションを採用してくれました。…今日は、私は燃えて、きっと日立の連勝を阻止するでしょう。どうぞ、その報告をお待ち下さい。 — フロー・ハイマン、月刊バレーボール 1986年3月号 53ページ 突然の訃報に接したセリンジャー夫人は、「コートで死んで本望だったかも知れない」と独り言ちしたという。 ハイマンの死は、倒れた際の映像が放送されたこともあり、アメリカでも大きな反響を呼んだ。1986年1月31日午前10時(現地時間)にトリニティ・パブティスト教会(ロサンゼルス)で行われた葬儀は全米に放送され、自宅にほど近いイングルウッド公園墓地に埋葬された。
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