みうら‐よしむら【三浦義村】
三浦義村
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三浦 義村(みうら よしむら)は、鎌倉時代初期の相模国の武将。鎌倉幕府の有力御家人。桓武平氏良文流三浦氏の当主・三浦義澄の次男(嫡男)。
注釈
- ^ 他に千葉常秀(祖父常胤譲り)・梶原景茂(父景時譲り)・八田知重(父知家譲り)が左兵衛尉、葛西清重が右兵衛尉、和田義盛・佐原義連・足立遠元が左衛門尉、小山朝政・比企能員が右衛門尉に任じられている。
- ^ 『明月記』は義村と義盛がそれ以前から対立関係にあったとしており、義村が当初から義時に内通していた可能性が高い(山本みなみ説)[12]。『愚管抄』は「義盛左衛門と云う三浦の長者」と記しており、京では義村の父・義澄死後の三浦一族の家長は義盛と見ていたと思われ、義村は20歳年長だった義盛に三浦一族家長の地位を脅かされていたと考えられる。また義村にとって義盛は同族で父方の従兄弟であった一方で、義時も母方の従兄弟にあたると共にその烏帽子親は義村の祖父・義明もしくは父・義澄であったされ(細川重男説)[13]、三浦氏と義時の関係もかなり密接なものであった可能性がある。
- ^ 藪本勝治や山本みなみは『明月記』の記述から、合戦においては義村と千葉成胤の軍勢の活躍が大きかったが、『吾妻鏡』は北条泰時の功績を強調する曲筆を行っているとしている[15][16]。
- ^ 義村黒幕説は永井路子が小説『炎環』で描いて以来注目され[17]、石井進がその可能性を認めた[18]ことで浮上した。他に同説を支持する研究者には、大山喬平[19]、上横手雅敬[20]、美川圭[21]などがいる。
- ^ 義時黒幕説は古くは新井白石が『読史余論』で唱えており、龍粛[22]、安田元久[23]などがこの説を取っている。
- ^ 北条・三浦ら鎌倉御家人共謀説は五味文彦が提唱し[24]、本郷和人が支持している[25]。
- ^ 後鳥羽黒幕説は谷昇が提唱している[26]。
- ^ 公暁単独犯行説を取っているのは山本幸司[27]、永井晋[28]、坂井孝一[29]、高橋秀樹[30]、矢代仁[31]、呉座勇一[32]、山本みなみ[33]など。
- ^ 『承久記』慈光寺本によれば、胤義は後鳥羽上皇の近臣の藤原秀康に説得されて倒幕計画に参加した。また『承久記』古活字本によれば、胤義は軍議において兄はきわめて「嗚呼ノ者」なので日本国総追捕使に任じられるなら必ず味方すると確約したという。
出典
- ^ a b 高橋 2016, p. 185.
- ^ 『吾妻鏡』元暦元年8月8日条
- ^ 『源平盛衰記』37巻「平家開城戸口并源平侍合戦事」
- ^ 『吾妻鏡』文治元年10月24日条
- ^ 『吾妻鏡』文治3年8月15日条
- ^ 『吾妻鏡』建久元年12月11日条
- ^ 『吾妻鏡』正治元年10月27日条
- ^ 『吾妻鏡』正治元年10月28日条
- ^ 『吾妻鏡』正治元年11月213日条
- ^ a b 『吾妻鏡』元久2年6月22日条
- ^ 『吾妻鏡』元久2年6月23日条
- ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年、193-194頁。
- ^ 細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史―権威と権力』日本史史料研究会、2007年、16-17頁。
- ^ 『吾妻鏡』健暦3年5月4日条
- ^ 藪本勝治「『吾妻鏡』の文脈と和田合戦記事」『軍記と語り物』第56号、2020年。
- ^ 山本みなみ「和田合戦再考」『古代文化』第68巻第1号、2016年。
- ^ 永井路子『炎環』光風社、1964年。
- ^ 石井進『鎌倉幕府』中央公論社〈日本の歴史7〉、1965年。
- ^ 大山喬平『鎌倉幕府』小学館〈日本の歴史9〉、1974年。
- ^ 上横手雅敬 著「承久の乱」、安田元久 編『古文書の語る日本史3 鎌倉』筑摩書房、1990年。
- ^ 美川圭『院政 もうひとつの天皇制』〈中公新書〉2006年。
- ^ 龍粛『鎌倉時代 下(京都)』春秋社、1957年。
- ^ 安田元久『北条義時』吉川弘文館〈人物叢書〉、1961年。
- ^ 五味文彦「源実朝-将軍独裁の崩壊」『歴史公論』第5巻第3号、1979年。
- ^ 本郷和人『承久の乱 日本史のターニングポイント』文春新書、2019年。
- ^ 谷昇「承久の乱に至る後鳥羽上皇の政治課題 -承久年中「修法群」の意味-」『立命館文学』588号、2005年。
- ^ 山本幸司『日本の歴史9 頼朝の天下草創』講談社、2001年。
- ^ 永井晋『鎌倉源氏三代記 一門・重臣と源家将軍』吉川弘文館、2010年。
- ^ 坂井孝一『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』講談社、2014年
- ^ 高橋秀樹『三浦一族の中世』吉川弘文館、2015年。
- ^ 矢代仁『公暁 鎌倉殿になり損ねた男』ブイツーソリューション、2015年。
- ^ 呉座勇一『頼朝と義時 武家政権の誕生』〈講談社現代新書〉、2021年。
- ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年。
- ^ 『承久記』慈光寺本巻上「義村胤義ノ書状ヲ義時ニ示シ且ツ院宣ノ使者ヲ捕ヘンコトヲ勧ム」
- ^ 『承久記』慈光寺本巻下「胤義兄義村ト合戦」
- ^ 高橋 2016, p. 197.
- ^ 和歌山県史 中世 1994, p. 26.
- ^ 和歌山県史 中世 1994, pp. 26–27.
- ^ 和歌山県史 中世 1994, p. 29.
- ^ 永井晋『鎌倉幕府の転換点 「吾妻鏡」を読みなおす』日本放送出版協会、2000年。
- ^ 大類伸ほか 編「田村城」『日本城郭全集 第4巻 東京・神奈川・埼玉』人物往来社、1967年、149-150頁。
- ^ 平井聖ほか 編「田村城」『日本城郭大系 第6巻 千葉・神奈川』新人物往来社、1980年、363頁。
- ^ 高橋 2016, p. 211.
- ^ 『吾妻鏡』延応元年12月5日条
- ^ 『平戸記』仁治元年正月28日条
- ^ 永井路子『つわものの賦』文藝春秋、1978年9月。
- ^ 『古今著聞集』巻15「闘争」
- ^ 森野宗明「下総犬と三浦犬 : 『古今著聞集』の三浦義村、千葉胤綱口論の説話をめぐって」『日本語と日本文学』第8巻、筑波大学国語国文学会、1988年1月、1-9頁、2021年7月10日閲覧。
三浦義村(義村流)
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義澄の跡は長子の三浦義村(?-1239年)が継いだ。義村の弟である有綱・重澄は、それぞれ山口氏、大河戸氏を称した。義村は評定衆の宿老に就任。
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