和田合戦
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和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の建暦3年(1213年)5月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱である。和田義盛の乱とも呼ばれる。
- ^ 『明月記』によると、和田軍は広元邸の酔客をみな殺害し、火を放って防御の構えを焼き、室屋を一つも残さなかったとある。
- ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年、p193
- ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年、p193-194
- ^ 藪本勝治「『吾妻鏡』の文脈と和田合戦記事」『軍記と語り物』第56号、2020年
- ^ 山本みなみ「和田合戦再考」『古代文化』第68巻第1号、2016年
- ^ 石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中公文庫、1974年)p302
- ^ 坂井孝一『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』(講談社選書メチエ、2014年)
- ^ 山本幸司『日本の歴史9 頼朝の天下草創』(講談社、2001年)
- ^ 永井晋『鎌倉源氏三代記 一門・重臣と源家将軍』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー、2010年)
- ^ 坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』(PHP新書、2021年)
- ^ 永井晋『北条政子・義時の謀略 鎌倉幕府争乱期を読む』(ベストブック、2022年)
- ^ 平井ほか 1980 p.313
- ^ 港南の歴史研究会 1986 p.70
- ^ 「野庭の「関城」と周辺 上大岡・野庭」横浜市公式HP
和田合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 13:28 UTC 版)
詳細は「和田合戦」を参照 建暦3年(1213年)2月、義盛が上総伊北荘に下っている最中に、泉親衡が頼家の遺児を擁立して北条氏を打倒しようとする陰謀が露見(泉親衡の乱)。関係者の自白から義盛の子の義直、義重、甥の胤長の関与が明らかにされた。 3月、義盛は鎌倉へ戻って実朝に子や甥の赦免を願い出て、子は許されるが、甥の胤長のみは張本人であるとして許されなかった。助命嘆願に訪れた和田一族90人が控える将軍御所の南庭で胤長は縄で縛られて引き立てられ、和田一族に大きな恥辱を与えた。 胤長は陸奥国へ配流となり、鎌倉の邸は没収された。義盛は罪人の屋敷は一族に下げ渡される慣わしであるとして自分に賜るよう求めた。この願いは聞き届けられるが、そのすぐ後に義時は乱の平定に手柄のあった別の御家人に胤長旧邸を下げ渡してしまった。 重ね重ねの、この義時の挑発に対して、義盛は横山党や反北条派を誘い挙兵を決意する。鎌倉では流言飛語が飛び、騒然とした。4月27日、憂慮した実朝は使者を義盛の邸へ送った。使者に対して、義盛は「上(実朝)には全く恨みはございません。相州(義時)のあまりに傍若無人について仔細を訊ねるべく発向しようとしているだけです」と答えた。 挙兵に際して最も頼りにしたのが、本家に当たる三浦氏の当主・義村であった。義村は挙兵への同心を約束し、起請文まで書いた。だが、義村は弟の胤義と相談して、変心して義盛謀反を義時に通報する。 5月2日、義盛は一族と共に挙兵。鎌倉で激しい市街戦が展開された。武勇で知られる和田一族は奮戦し、中でも三男の朝比奈義秀は最もめざましく戦った。だが、義時方には新手が次々に到着し、夜までに和田一族も疲れ、由比ヶ浜へ後退して援軍を待った。翌3日朝、横山党が到着し、その他の味方も到着して、再び勢いを盛り返した。和田方が意外な大軍になりつつあるのを恐れた義時と大江広元は将軍実朝の名で御教書を発する。これに多くの御家人が応じ、実朝の命を受けた幕府軍は大軍となって押し返した。夕刻までに和田一族は次々と討たれ、そのうち愛息義直も討ち死にし、老いた義盛は声をあげて悲嘆号泣した。そこへ江戸義範の郎党が襲いかかり、遂に討ち取られた。享年67。 子の義重、義信、秀盛は討ち死にするが、常盛、朝比奈義秀、孫の朝盛らは戦場を脱して落ち延びた。『愚管抄』は「義盛左衛門と云う三浦の長者、義時を深く嫉みて討たんとの志ありけり」と記しており、京都では叔父三浦義澄死後の三浦一族の家長は、義盛と見ていたと思われる。 鎌倉では八幡宮三の鳥居近くの小町通り側、現在の鎌倉彫椿堂の辺りに邸宅があった。義盛が戦死した由比ヶ浜には、現在でも「和田塚」という地名が残っている。
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和田合戦
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詳細は「和田合戦」を参照 頼朝が再起すると、中村党もこれに従い、平家追討、奥州合戦に参加し、鎌倉幕府樹立に功を立てている。なお、中村氏の本宗は絶え、土肥・土屋一族が中枢を担うようになったが、『吾妻鏡』[要文献特定詳細情報]にも「土肥・土屋の一族」と記載している。 建保元年(1213年)の和田合戦には、土肥・土屋・岡崎一族は和田方に加わり、多数の者が討ち死にしたことが『吾妻鏡』[要文献特定詳細情報]に見出される。 その後、生き残った一族は、甲斐、越中、安芸などの豪族として発展した。
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