和田厳足とは? わかりやすく解説

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和田厳足

読み方わだ いずたり

熊本藩士。真震、弓削平八二男。同藩和田氏嗣ぐ皇学長瀬真幸の門にて、古風体を好くし、中島広足とは最も深交あり。著書数種あり。安政6年(1859)歿、73才。

和田厳足

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 02:02 UTC 版)

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和田 厳足(わだ いずたり、天明7年(1787年) - 安政6年4月27日1859年5月29日))は江戸時代後期の歌人肥後熊本藩士。旧姓は弓削。本姓は橘氏。通称は震七郎、別名は千尋、真震(まゆり)。号は釣竜翁。

長瀬真幸国学を学んで万葉調の歌を詠み、特に長歌に長じた。熊本藩士としては、熊本を追われて八代、更に佐敷へと左遷され、不遇な経歴を辿った。

生涯

熊本時代

天明7年(1787年)、熊本藩士弓削平八の二男として熊本城下塩屋町(熊本市新町二丁目[1])に生まれ、同藩士和田団四郎の養子となった[2]。和田家は和田正遠楠木正成の親族で建武政権の重鎮)の後裔で、慶長年間丹後国で和田総右衛門が細川忠興に200石で仕えたという[2]。蟹江観遊に儒学長瀬真幸国学を学んだ[3]

文化13年(1816年)8月、跡目を相続して御番方に就任した[2]。熊本時代、同士と京都に旅行し、琵琶湖嵯峨野大堰川を訪れた[4]

文政5年(1822年)、藩士和田金右衛門の病死時に軍用金が紛失し、長塩某が千田村(山鹿市鹿央町)の娘を訴える書状に連署したが、証拠不十分として却下され、8月4日八代城に左遷された[5]

八代時代

八代では組頭副役を勤めたが、天保3年(1832年)閏11月、2月28日の和田宅酒会で上田紋吾が酒乱に及び、また禁酒処分の園部貞右衛門を招いたことが藩に咎められ、御役御免となった[6]。更に天保4年(1833年)11月には、1月23日養子土之助と嫡女が家出したことに対し、教育不行届として逼塞を命じられた[7]

11月、松浦某に代わって八代御城附組脇として復帰し、弘化3年(1846年)8月には精勤に付き紋付上下一具を賜った[8]。また、次女が熊本の大西弥左衛門に嫁ぐなど、慶事が続いた[8]

しかし、嘉永2年(1849年)閏4月、ある女性の空言を藩に讒言されたことで、佐敷御番への転勤を命じられた[9]。4月19日から5月20日まで、新たな養子喜太郎と共に謹慎したが[10]、謹慎中、家人が城主松井勝敬の家人と喧嘩を起こす騒動があった[11]

佐敷時代

12月21日佐敷に赴任し、斗石(芦北町計石)の関守となった[12]。嘉永3年(1850年)1月7日、兄危篤の報を受けて熊本に戻った[13]。八代では、文政頃計画された球磨川干拓に対し、古代の名所水島の保存運動を行ったと伝えられる[14]

安政4年(1857年)11月、病気のため、養子喜太郎に家督を譲った[15]。喜太郎は上益城郡南田代村(御船町)上野栄喜の二男[15]。安政6年(1859年)4月27日死去し、葦北郡田浦(芦北町)丘上に葬られた[16]。法号は至誠院深誉願正居士[16]。墓は昭和53年(1978年)1月30日田浦町指定文化財[17]

主な作品

  • 廿日草」嘉永2年(1849年)5月11日[18] - 巻頭「長歌短歌日詠々草」(ながきみじかきひにけによめるうたのしるしぶみ)
  • 「長歌短歌日詠々草」安政2年(1855年)1月1日より[19]
  • 「鐙之記草案」[20]
  • 「滝見記」[21]
  • 「酔のすさひの独言」嘉永6年(1853年)3月22日[22]
  • 「桜百首」[23]
  • 「日詠三十首」文政13年(1830年)閏3月[24]
  • 今様[25]
  • 楠公父子桜井の駅にて訣別せる画に」安政5年(1858年)3月20日[26]
  • 成趣園に、宴を賜はせる時の御謌に、和謌一首并短謌二首」[27]
  • 鼓が滝をよめる」[28]
  • 「夢に富士が嶺に遊ぶ歌並短歌」嘉永5年(1852年)閏3月3日[29]
  • 「寄鏡述懐」[30] - 文献叢書本に「楠公五百年祭」とある[31]
  • 「月前言志」[32]

性格

学問だけでなく、槍術にも通じた[2]

酒豪で、名の厳足は厳樽または泉樽の意という[2]。やや酔った時は真震、大いに酔った時は大真震の号を用いたが、安政の大地震以降は馬百合の字を用いた[2]

公私を問わず、常に奇態な書体を用いた[33]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 熊本市 旧・新町名対照表”. 熊本市. 2020年5月12日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 弥富(1926) p.34
  3. ^ 弥富(1944) p.29
  4. ^ 弥富(1944) p.2
  5. ^ 弥富(1926) p.36-37
  6. ^ 弥富(1926) p.42-43
  7. ^ 弥富(1926) p.42-44
  8. ^ a b 弥富(1926) p.44
  9. ^ 弥富(1926) p.45-46
  10. ^ 弥富(1926) p.45-46
  11. ^ 弥富(1926) p.62
  12. ^ 弥富(1926) p.64
  13. ^ 弥富(1926) p.66
  14. ^ 弥富(1944) p.14
  15. ^ a b 弥富(1926) p.71
  16. ^ a b 弥富(1926) p.72
  17. ^ 芦北町文化財一覧
  18. ^ 弥富(1944) p.159-179
  19. ^ 弥富(1944) p.111-125
  20. ^ 弥富(1944) p.146-148
  21. ^ 弥富(1944) p.149-158
  22. ^ 弥富(1944) p.180-184
  23. ^ 弥富(1944) p.39-46
  24. ^ 弥富(1944) p.63-67
  25. ^ 弥富(1944) p.239-244
  26. ^ 弥富(1926) p.185-187
  27. ^ 弥富(1926) p.193-197
  28. ^ 弥富(1926) p.211-213
  29. ^ 弥富(1944) p.126-129
  30. ^ 弥富(1944) p.130-140
  31. ^ 宇野(1910) p.694
  32. ^ 弥富(1944) p.141-142
  33. ^ 弥富(1926) p.111

参考文献

  • 弥富破摩雄『和田厳足と其の家集』、古今書院、1926年
  • 弥富破摩雄『勤皇歌人和田厳足』、文松堂、1944年
  • 宇野東風編「橘伊豆足か家の集」『肥後文献叢書』第3巻、隆文院、1910年

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