中島広足とは? わかりやすく解説

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なかじま‐ひろたり【中島広足】

読み方:なかじまひろたり

[1792〜1864]江戸後期国学者歌人肥後の人。号、橿園(かしぞの)。長崎住んだ独学本居宣長父子の学を継承。のち肥後藩藩校国学教授。著「詞玉緒(ことばのたまのお)補遺」「橿園集」など。


中島広足

読み方なかじま ひろたり

江戸後期国学者歌人熊本藩士。広足は名、通称嘉太郎、号は橿園田翁若くして隠居、ほとんど独学本居学を継承発展させた。帰郷して藩校国学教授となる。元治元年(1864)歿、73才。

中島広足

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 01:09 UTC 版)

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中島 広足(なかじま ひろたり、1792年4月25日寛政4年3月5日) - 1864年2月28日文久4年1月21日))は、江戸時代後期の熊本藩士、国学者歌人。橿園(かしぞの、きょうえん)と号した[1]

経歴

肥後国熊本城下(現・熊本市)に、代々細川家の家臣の家に生まれる。11歳の時、父・惟規が亡くなったため家督を継ぎ、15歳で御小姓役となり細川斉茲に仕えた。病気により24歳で家督を妹婿に譲り、本居宣長国学を学んだ長瀬真幸に師事し、国学を研究した[2]

30歳の頃、長崎に移り住み、長崎諏訪神社の神官らと交流を持ち家塾を開いて和歌や国学などを教えた。のち大坂に移り過ごしたが、晩年は熊本に戻り藩校時習館の国学教授となって多くの門弟を育てた。著書に、『橿園集』、『志能数多礼』(しのすだれ)などがある[2]

出典

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  1. ^ 日外アソシエーツ『熊本県人物・人材情報リスト2007』311頁。
  2. ^ a b 熊本日日新聞社編『熊本人物鉱脈』熊本日日新聞社、1963年、6-8頁。

参考文献

  • 鈴木喬編『熊本の人物』熊本日日新聞社、1982年、112-113頁。
  • 熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982年、608頁。

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