佐敷時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 02:02 UTC 版)
12月21日佐敷に赴任し、斗石(芦北町計石)の関守となった。嘉永3年(1850年)1月7日、兄危篤の報を受けて熊本に戻った。八代では、文政頃計画された球磨川干拓に対し、古代の名所水島の保存運動を行ったと伝えられる。 安政4年(1857年)11月、病気のため、養子喜太郎に家督を譲った。喜太郎は上益城郡南田代村(御船町)上野栄喜の二男。安政6年(1859年)4月27日死去し、葦北郡田浦(芦北町)丘上に葬られた。法号は至誠院深誉願正居士。墓は昭和53年(1978年)1月30日田浦町指定文化財。
※この「佐敷時代」の解説は、「和田厳足」の解説の一部です。
「佐敷時代」を含む「和田厳足」の記事については、「和田厳足」の概要を参照ください。
- 佐敷時代のページへのリンク