佐斐神町の集団移転
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昭和45年(1970年)防衛庁は、美保基地使用滑走路の角度を北へ26度(佐斐神町方向)変更する付け替え計画を発表し、周辺住民の同意のないまま工事に着工した。滑走路の角度変更にともなって直接飛行機の進入コースの下に入る佐斐神町は、C46輸送機に替え51年配備のC-1ジェット輸送機の騒音はもとより生活生命が脅かされる危険が予想されるため会合に会合を重ね苦慮した結果、全戸集団移転の意思を決定した。 しかし全戸移転ともなれば絶対反対賛成(条件付)と論議をかもす結果となるのは当然で、両者骨肉の争いとなったのは紛れもない事実である。加えて滑走路変更工事は住民無視不在な進行により、問題解決が遅れることとなり柏木整一郎境港市長は「政治生命を賭けても解決せん」と5条件を掲示し、賛成の方向に力を与え、多くの問題を残したまま集団移転への軌道へと動き出した。 佐斐神町民は心情として祖先伝来の住み慣れた土地への愛着を感じながらも、新生幸神町へ昭和58年(1983年)集団移転は終了した。
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