熊本時代
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当時、熊本で行われていた能は、専らあてごとの多い写実的な(即ち芝居のような)芸であった。その中に、伴馬は本格的な江戸風の芸を身につけて帰ってきた。そのため、江戸帰りの伴馬の能を見た熊本の人々は、「伴馬は江戸へ行って能が下がった」と揃って嘆いたが、逆に本座の大夫で伴馬の良きライバルだった友枝三郎だけは「いや、あれが本当の能だ」とその実力を認めた。 当時、熊本を初め、八代・川尾・長崎・臼杵・竹田といった豊肥各地では、非常に盛んに能楽が行われていた。伴馬も大名家での演能、また神事能への出演の他に、自ら日数能を主催し、毎回大変な盛況を博していた。 江戸幕府が倒れた1867年(慶応3年)、伴馬は32歳であった。幕府・大名からの扶持で生活していた能役者たちは、維新によりその多くが零落、能の道を離れるものも少なくなかった。後に伴馬とともに「三名人」として並び称される初世梅若実など、ごく一部の役者が地道な活動を続けたものの、同じく「三名人」の一人とされる宝生九郎でさえ、農家暮らしを余儀なくされるという有様であった。 伴馬はそんな情況の中、熊本を中心に活発な演能活動を続けた。前述の通り元より一帯は能が盛んであり、また維新以後本座・新座間の対抗意識がこれまで以上に激しくなったことも、かえって伴馬を芸に打ち込ませる要因となった。熊本、あるいは竹田などでたびたび日数能が催され、伴馬は1日に2番舞うこともあった。当時の熊本での舞台の数は東京の3倍以上だったといわれ、伴馬の生涯1500番あまりに及んだ舞台のうち、その多くはこの熊本時代のものだったと見られる。 このように充実した活躍を続けていた伴馬だったが、1877年(明治10年)、西南戦争に遭遇する。熊本も兵火に巻き込まれ、櫻間家の舞台も焼けてしまったため、伴馬は弟・金記とともに、装束や面を背負えるだけ背負って、熊本から2、3里離れた村まで避難した。以後しばらく、菓子屋で生計を立てることを余儀なくされるなど、伴馬にとって苦しい時期となった。
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熊本時代
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「コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルト」の記事における「熊本時代」の解説
1871年(明治4年)から3年間の契約で熊本の古城(ふるしろ)医学所および病院で教鞭を執り、患者の治療も行った。1年目は長崎時代の教え子・高橋正直を岡山医学校から呼び寄せ通訳させた。 マンスフェルトはオランダ語の修得に熱心な生徒・北里柴三郎を目に留め、北里は夜間はマンスフェルトの家で語学を修得し、2年目からは講義の通訳を行った。日本人が作った病理の講義録が残されている。教育方針として「教師は学校にいて直ちに学生を医者にしたてるものではない。学生をしてその研究上、行くべき道を指示し、且つ学生自ら研究すべき方法を教えるものである」と述べている。教科目は、解剖学、組織学、顕微鏡学、生理学、病理総論、内科学、外科学、オランダ語学、物理学、修身で、オランダ語学と修身は随意科目であるが、他は正科である。正科はマンスフェルト、オランダ語は助教、教導、通訳、物理学は助教、修身は茶道竹崎律次郎が担当した。マンスフェルトの授業は午後の2時間であった。基礎も臨床も行ったが、解剖学の教科書、残された組織の図などを見ると、なかなか侮れない内容であった。
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熊本時代
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天明7年(1787年)、熊本藩士弓削平八の二男として熊本城下塩屋町(熊本市新町二丁目)に生まれ、同藩士和田団四郎の養子となった。和田家は和田正遠(楠木正成の親族で建武政権の重鎮)の後裔で、慶長年間丹後国で和田総右衛門が細川忠興に200石で仕えたという。蟹江観遊に儒学、長瀬真幸に国学を学んだ。 文化13年(1816年)8月、跡目を相続して御番方に就任した。熊本時代、同士と京都に旅行し、琵琶湖や嵯峨野、大堰川を訪れた。 文政5年(1822年)、藩士和田金右衛門の病死時に軍用金が紛失し、長塩某が千田村(山鹿市鹿央町)の娘を訴える書状に連署したが、証拠不十分として却下され、8月4日八代城に左遷された。
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熊本時代
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熊本藩領の肥後国阿蘇郡宮地(現・熊本県阿蘇市一の宮町宮地)に生まれる。 1874年(明治7年)、16歳の時に選ばれて、リロイ・ランシング・ジェーンズの熊本洋学校に入学する。恩師ジェーンズの薫陶を受けて、1876年(明治19年)に学友と一緒に奉教趣意書にサインをする。
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