熊本時代とは? わかりやすく解説

熊本時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 10:06 UTC 版)

櫻間伴馬」の記事における「熊本時代」の解説

当時熊本行われていた能は、専らあてごとの多い写実的な(即ち芝居のような)芸であった。その中に、伴馬は本格的な江戸風の芸を身につけて帰ってきた。そのため、江戸帰りの伴馬の能を見た熊本人々は、「伴馬は江戸へ行って能が下がった」と揃って嘆いたが、逆に本座大夫で伴馬の良きライバルだった友枝三郎だけは「いや、あれが本当の能だ」とその実力を認めた当時熊本初め八代・川尾・長崎・臼杵竹田といった豊肥各地では、非常に盛んに能楽が行われていた。伴馬も大名家での演能、また神事能への出演の他に、自ら日数能を主催し毎回大変な盛況博していた。 江戸幕府倒れた1867年慶応3年)、伴馬は32であった幕府大名からの扶持生活していた能役者たちは、維新によりその多く零落、能の道を離れるものも少なくなかった。後に伴馬とともに三名人」として並び称される初世梅若実など、ごく一部役者地道な活動続けたものの、同じく三名人」の一人とされる宝生九郎でさえ、農家暮らし余儀なくされるという有様であった。 伴馬はそんな情況の中、熊本中心に活発な演能活動続けた前述通り元より一帯は能が盛んであり、また維新以後本座新座間の対抗意識これまで以上に激しくなったことも、かえって伴馬を芸に打ち込ませる要因となった熊本、あるいは竹田などでたびたび日数能が催され、伴馬は1日2番舞うこともあった。当時熊本での舞台の数は東京の3倍以上だったといわれ、伴馬の生涯1500あまりに及んだ舞台のうち、その多くはこの熊本時代のものだったと見られるこのように充実した活躍続けていた伴馬だったが、1877年明治10年)、西南戦争遭遇する熊本兵火巻き込まれ櫻間家舞台焼けてしまったため、伴馬は弟・金記とともに装束や面を背負えるだけ背負って熊本から2、3里離れまで避難した以後しばらく、菓子屋生計立てることを余儀なくされるなど、伴馬にとって苦し時期となった

※この「熊本時代」の解説は、「櫻間伴馬」の解説の一部です。
「熊本時代」を含む「櫻間伴馬」の記事については、「櫻間伴馬」の概要を参照ください。


熊本時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/31 13:29 UTC 版)

コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルト」の記事における「熊本時代」の解説

1871年明治4年)から3年間の契約熊本古城(ふるしろ)医学所および病院教鞭執り患者の治療行った1年目長崎時代教え子高橋正直岡山医学校から呼び寄せ通訳させた。 マンスフェルトオランダ語修得に熱心な生徒北里柴三郎を目に留め北里夜間マンスフェルトの家で語学修得し2年目からは講義通訳行った日本人作った病理講義録残されている。教育方針として「教師学校にいて直ち学生医者したてるものではない。学生をしてその研究上、行くべき道を指示し且つ学生自ら研究すべき方法教えるものである」と述べている。教科目は、解剖学組織学顕微鏡学、生理学病理総論内科学外科学オランダ語学、物理学修身で、オランダ語学と修身随意科目であるが、他は正科である。正科はマンスフェルトオランダ語助教教導通訳物理学助教修身茶道竹崎次郎担当したマンスフェルト授業午後の2時間であった基礎臨床行ったが、解剖学の教科書残され組織の図などを見ると、なかなか侮れない内容であった

※この「熊本時代」の解説は、「コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルト」の解説の一部です。
「熊本時代」を含む「コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルト」の記事については、「コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルト」の概要を参照ください。


熊本時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 02:02 UTC 版)

和田厳足」の記事における「熊本時代」の解説

天明7年1787年)、熊本藩弓削平八二男として熊本城下塩屋町(熊本市新町二丁目)に生まれ、同藩士和田四郎養子となった和田家和田正遠楠木正成親族建武政権重鎮)の後裔で、慶長年間丹後国和田総右衛門細川忠興200石で仕えたという。蟹江観遊に儒学長瀬真幸国学学んだ文化13年1816年8月跡目相続し御番方に就任した。熊本時代、同士京都旅行し琵琶湖嵯峨野大堰川訪れた文政5年1822年)、藩士和田金右衛門病死時に軍用金紛失し、長塩某が千田村山鹿市鹿央町)の娘を訴え書状連署したが、証拠不十分として却下され8月4日八代城左遷された。

※この「熊本時代」の解説は、「和田厳足」の解説の一部です。
「熊本時代」を含む「和田厳足」の記事については、「和田厳足」の概要を参照ください。


熊本時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 17:19 UTC 版)

宮川経輝」の記事における「熊本時代」の解説

熊本藩領肥後国阿蘇郡宮地(現・熊本県阿蘇市一の宮町宮地)に生まれる。 1874年明治7年)、16歳時に選ばれて、リロイ・ランシング・ジェーンズ熊本洋学校入学する恩師ジェーンズ薫陶受けて1876年明治19年)に学友一緒に奉教趣意書サインをする。

※この「熊本時代」の解説は、「宮川経輝」の解説の一部です。
「熊本時代」を含む「宮川経輝」の記事については、「宮川経輝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「熊本時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「熊本時代」の関連用語

熊本時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



熊本時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの櫻間伴馬 (改訂履歴)、コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルト (改訂履歴)、和田厳足 (改訂履歴)、宮川経輝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS