長崎時代
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長崎時代
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「コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルト」の記事における「長崎時代」の解説
その後、アントニウス・ボードウィンが長崎精得館を1866年(慶応2年)に退官した時に後任として上海から来日した。マンスフェルトは、解剖学、組織学、眼科学に詳しかった。明治維新で精得館が長崎附医学校と変わった際に、長與專齋と相談し教育制度を改革した。すなわち、小学校学科(数学、物理、化学)と大学校学科(解剖学、生理学、病理学、内科学、外科学、眼科学、産科学、一切治療、薬剤学、包帯学、翻訳)に分け、教養科目と専門科目を区別した。
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長崎時代
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上海に一時寄港した後、ブラウンとシモンズは別で先に神奈川に渡り、上海に妻マリアを残して1859年11月7日に、日本語習得のために長崎に一人で上陸した。フルベッキは長崎の第一印象を「ヨーロッパでもアメリカでも、このような美しい光景を見たことはない」と記している。長崎では聖公会のジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズに迎えられ、崇徳寺広徳院に同居した。その後、12月19日に妻マリアを上海より呼び寄せた。1860年1月26日には長女を授かり、エマ・ジャポニカと命名するが、生後2週間で死去する。フルベッキ夫妻は崇福寺近くの住居に住んでいたが、妻が神経痛となり、原因が寝室の湿度の高さにあると説明され、ハインリッヒ・シュミット医師の薦めで、1860年11月15日に環境の良い崇福寺広福庵へ転居した。広福庵は、最初の住まいであった崇福寺広徳院と同じ境内の高台にあった。1861年1月18日には、長男チャールズ・ヘンリー・ウィリアム・ヴァーベック(フルベッキ)が生まれた。 長崎では、開国後も依然としてキリシタン禁制の高札が掲げられており、宣教師として活動することができなかった。しばらくは私塾で英語などを教え生計を立てていた。1862年には、自宅でバイブルクラスを開いた。また1861年から1862年にかけては佐賀藩の大隈重信と副島種臣がフルベッキの元を訪れ、英語の講義を受けている。1862年にチャニング・ウィリアムズがジョージ・スミス主教の寄金と居留外国人の献金によって長崎・山手居留地内に完成した英国聖公会会堂(日本で最初のプロテスタントの教会)の初代チャプレンとなるが、2代目チャプレンはフルベッキが務めている。フルベッキとウィリアムズは盟友となり、フルベッキの子供たちはウィリアムズより洗礼、堅信を受け聖公会員となった。フルベッキの次男はチャニング・ムーア・ヴァーベック(フルベッキ)と命名している。1863年(文久3年)に、のちに聖公会の婦人伝道師となり、立教女学校(現・立教女学院)、立教学校(現・立教大学)で教師を務める次女エマ・ジャポニカが生まれる。同年、生麦事件をきっかけとした薩英戦争の時は上海に避難して、1864年に長崎に戻った。また大隈重信と副島種臣はこの頃から、フルベッキから英語の個人授業を受けている。大隈はフルベッキの授業によってキリスト教に興味を抱いたと述懐している。 1864年(元治元年)には、長崎奉行より幕府が長崎につくった長崎英語伝習所(フルベッキが在籍した当時は洋学所→済美館→広運館などと呼ばれた)の英語講師への招聘があり、フルベッキは教師として幕府に雇用された。また、この幕府の英学所「済美館」とともに、佐賀藩が設置した致遠館でも教鞭を取っており、彼に師事して集まった学生達の姿はフルベッキ群像写真(上野彦馬撮影)として継承され、現在も長崎歴史文化博物館で展示公開されている。 済美館の教え子には何礼之、平井希昌がおり、また大山巌も学生の一人であったといわれている。大久保利通や伊藤博文(おそらくアーネスト・サトウつながり)も教えを受けたとも。 何礼之はその後私塾を開き、前島密、陸奥宗光、高峰譲吉、安保清康、山口尚芳らを輩出した。何礼之私塾の塾生はフルベッキのアドバイスや援助も受けていた。 慶応3年(1867年)11月、佐賀藩前藩主の鍋島直正等と親交があった関係で、佐賀藩がフルベッキを雇用することになった。しかし佐賀藩が外国人の立ち入りを認めなかったため、フルベッキのために長崎に藩校「蕃学稽古所(慶応4年8月25日以降は致遠館)」が設立された。英語、政治、経済などについて講義をしている。また、オランダで工科学校を卒業した経歴から工学関係にも詳しく、本木昌造の活字印刷術にも貢献している。同年には佐賀藩家老の村田若狭と弟綾部恭に洗礼を授け、1868年には仏僧清水宮内に洗礼を授けた。伊藤博文はフルベッキの門弟だったといわれることもあるが、伊藤は長崎に長期滞在したこともなく、直接の関わり合いを示す文書は残っていない。しかし伊藤はフルベッキが滞在していた大徳寺に宿泊したことがあり、フルベッキの弟子である何礼之の弟子、芳川顕正を大徳寺に呼び寄せて英語を学んでいたことから、両者の間に何らかの接触があったと見られている。またほかに相良知安、山口尚芳、本野盛亨らを輩出している。 慶応3年(1867年)から4年(1868年)にかけては薩摩藩や土佐藩によるフルベッキの引き抜きが行われようとしたが、大隈らが1000両の給金を支払うよう藩にかけあったことで決着している。明治元年(1868年)には岩倉具視の子、岩倉具定と岩倉具経が門弟となり、致遠館で学んだ。致遠館での校長、教頭の関係や学生時代の子弟関係から、大隈重信はフルベッキを師と仰ぎ、大隈が創設した早稲田大学でもフルベッキを建学の祖として讃えている。
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