フルベッキ群像写真
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/19 04:56 UTC 版)
フルベッキ群像写真(フルベッキぐんぞうしゃしん)は、在米オランダ改革派教会から派遣されたオランダ出身の宣教師グイド・フルベッキとその子[注 1][2]と佐賀藩の藩校「致遠館」の学生・教師との計46名で写した集合写真の俗称である[3][4]。撮影時期は、明治元年(1868年)10月から11月と推定[3]されている。「フルベッキ写真」、「フルベッキと塾生たち」とも呼ばれる[5]。
注釈
- ^ 慶應義塾大学理工学部元准教授で古写真研究家の高橋信一は次女のエマ・ジャポニカ・フルベッキ(1863年2月4日生)としている。また、遡ること1957年(昭和32年)には、古写真収集家の石黒敬七の写真集「写された幕末」で「長崎海軍練習所の蘭人教師とその娘をかこむ44人の各藩生徒」と紹介されている[1]。
- ^ これは、佐賀県有田市の陶器業者である山口孝が製作販売したもの。「日本を動かした幕末維新の志士達」というタイトル付きの、46人の名前が入ったフルベッキ群像写真の陶板額で、現在でも長崎などの土産物店でこの説を取り入れた商品が販売されることがある[17]。
- ^ 子孫とされているオランダ人の血を引く日本人は、フルベッキと全く血縁のない人物であることが判明している[18]。
出典
- ^ 舎人学校『「フルベッキ写真」に関する調査結果』慶應義塾大学 高橋信一 2007年1月15日
- ^ a b c 石黒敬章 (2014), p. 35.
- ^ a b c 石黒敬章 (2014), p. 34.
- ^ 倉持基「フルベッキと塾生たち写真の一考察」、『上野彦馬歴史写真集成』 pp.98-102
- ^ a b 斎藤充功 (2012), p. 4.
- ^ a b c 村瀬寿代 (2000), p. 84.
- ^ 村瀬寿代 (2000), p. 87.
- ^ 村瀬寿代 (2000), p. 88.
- ^ 上野一郎「撮影年代を推定する」、『写真の開祖 上野彦馬』 pp.205-213
- ^ 村瀬寿代 (2000), p. 83.
- ^ 高橋信一 (2007), p. [要ページ番号].
- ^ 「「フルベッキ写真」伝説覆す原板」『読売新聞』読売新聞社、2013年4月24日、文化面。オリジナルの2017年8月16日時点におけるアーカイブ。
- ^ 「幕末伊東次兵衛出張日記」『佐賀県近世史料』第5巻第1号、佐賀県立図書館、2008年。
- ^ 倉持基 & 高橋信一 (2013), pp. 190–199.
- ^ 丹下甲一 (2013), pp. 208–217.
- ^ 斎藤充功 (2012), p. 113.
- ^ a b 斎藤充功 (2012), p. 114.
- ^ 斎藤充功 (2012), p. 116.
- ^ 『決定版 秘密結社の暗号FILE』 pp.165-170
- 1 フルベッキ群像写真とは
- 2 フルベッキ群像写真の概要
- 3 脚注
- フルベッキ群像写真のページへのリンク