写真についての推定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:10 UTC 版)
「フルベッキ群像写真」の記事における「写真についての推定」の解説
この写真は写真師の上野彦馬が長崎の上野撮影局において、フルベッキ父子2名と「致遠館」(佐賀藩が長崎に設けた英学校)の学生・教師44名を撮影したものである。明治元年10月27日(1868年12月10日)に致遠館に留学した岩倉具定・具経兄弟(岩倉具視の次男・三男)がフルベッキ父子の左右に写っている(グイド・フルベッキの向かって右が岩倉具定、エマ・フルベッキの向かって左が岩倉具経)ことや、撮影が行われた上野彦馬のスタジオ内の背景などから、慶応年間の撮影はあり得ない。高橋信一は、岩倉兄弟などの長崎滞在の時期から見て明治元年(1869年)の10月28日から11月19日までの間に撮影されたと推測している。一方、上野彦馬の一族である上野一郎は明治2年(1869年)の撮影であると推定している。 上野一郎によると、撮影場所の長崎上野撮影局は、早ければ慶応3年(1867年)末から慶応4年(1868年)にかけて、写場の大改造が行われている。フルベッキ写真の手前側に石畳があることから、改造後の写場で撮影されている。 2013年にその証拠となる写真も発見されている。明治元年10月8日(1868年11月21日)にフルベッキと佐賀藩中老・伊東次兵衛(外記、祐元)が致遠館教師である佐賀藩士5人(中島永元、堤薫信、中野健明、中山信彬、副島要作)と一緒に撮影されたガラス湿板写真(撮影者は上野彦馬)が見つかった。その写真の撮影日を裏付ける伊東次兵衛の日記の存在も知られている。ガラス板に写る致遠館教師5人はほぼ同じ姿で「フルベッキ群像写真」にも写っている。 「フルベッキ群像写真」に写っている致遠館の学生の名前も徐々に判明してきている。フルベッキ親子の両隣にいる岩倉兄弟をはじめ、折田彦市、相良知安、石丸安世、山中一郎、香月経五郎、中島永元、丹羽龍之助、石橋重朝、江副廉造、大庭櫂之助、中野健明など、維新の志士ほどではないにしても政治家や官僚としてのちの歴史に名を遺す人物も確認されている。
※この「写真についての推定」の解説は、「フルベッキ群像写真」の解説の一部です。
「写真についての推定」を含む「フルベッキ群像写真」の記事については、「フルベッキ群像写真」の概要を参照ください。
- 写真についての推定のページへのリンク