「維新の志士達の集合写真」説とは? わかりやすく解説

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「維新の志士達の集合写真」説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:10 UTC 版)

フルベッキ群像写真」の記事における「「維新の志士達の集合写真」説」の解説

昭和49年1974年)、肖像画家島田隆資が雑誌日本歴史』に、「この写真には坂本龍馬西郷隆盛高杉晋作をはじめ、明治維新志士らが写っている」とする論文発表した2年後昭和51年(1975年)にはこの論文続編を同誌に発表)。島田は、彼らが写っているという前提で、写真の撮影時期慶応元年1865年)と推定した佐賀学生たちとして紹介され理由は、「敵味方分かれた人々写っているのが問題であり、偽装されたもの」だとした。 島田の説は学会では相手にされなかったが、一時佐賀市大隈記念館でもその説明取り入れた展示行っていた。また、昭和60年1985年)には自由民主党二階堂進副総裁議場持ち込み話題にしたこともあったという。また、平成16年2004年)には、朝日新聞毎日新聞日本経済新聞にこの写真焼き付けた陶板販売広告掲載された。東京新聞が行った取材では、各紙広告担当者は「論議がある写真とは知らなかった」としている。また、業者は「フルベッキの子孫から受け取ったもので、最初から全員の名前が記されていた」と主張している。平成21年2009年)にも、朝日新聞毎日新聞は「フルベッキ写真陶板広告掲載している。また、平成22年2010年)には、コンピューター画像処理され、写真に写る46全員色付けされて販売されスポーツ報知広告掲載された。 この写真話題は、間歇的復活してその度否定されるにも関わらず再度流行する傾向がある。ちなみに最初に島田隆資が同定し維新前後人物22であったが、流通するたびに徐々に増加し、現在では44人の人物すべてに維新前後有名人物の名付けられている。 島田隆資と同様の見解を取るものの中には大室寅吉大室寅之祐)という名でのちの明治天皇写っているとした説を唱えるものや、「明治維新欧米勢力糸を引いていた」説等の陰謀論偽史の「証拠」とする例もある(松重正、加治将一大野芳ら)。 石黒敬章は、フルベッキ後ろに写るごつい顔の人物が、誰であるかはまだ同定できていないが、西郷でないことだけは確かである、としている。

※この「「維新の志士達の集合写真」説」の解説は、「フルベッキ群像写真」の解説の一部です。
「「維新の志士達の集合写真」説」を含む「フルベッキ群像写真」の記事については、「フルベッキ群像写真」の概要を参照ください。

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