なまむぎ‐じけん【生麦事件】
生麦事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/05 23:47 UTC 版)
生麦事件(なまむぎじけん)は、文久2年8月21日(1862年[1]9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩主島津茂久の父・島津久光の行列に遭遇した騎馬のイギリス人たちを供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件[2]。
注釈
- ^ 同所にて平成22年12月より首都高速神奈川7号横浜北線建設のため、一時東側近隣の旧東海道脇に仮移転した。
- ^ ちょうど事件が自宅前で起こったため一部始終を間近に見た勘左衛門が、事件当日に神奈川奉行所に出した報告書である。
- ^ 当時京都の薩摩藩邸にかくまわれていた那須信吾の実兄宛書簡は、喜左衛門の弟の奈良原喜八郎としている。ただし、行列の先を行っていた宮里孫八郎が事件の十数日後に鹿児島の家族に宛てた書簡は、当番供目付だった兄・喜左衛門の名を挙げており、久光の駕籠側にいた松方正義も証言を残しており、リチャードソンへの一太刀目は兄の喜左衛門であったことが今日において定説である。
- ^ 「大警視・川路利良: 日本の警察を創った男」(著: 神川武利)より。主に海江田信義の著作と直話に基づく話のようである。
- ^ 事件当時、戸塚の宿役人だった川島弁之助の後年の談話である。
- ^ 生麦事件のわずか9日前、ジャーディン・マセソン商会横浜支店のS.J.ガウアーは、ヴァイス領事に出していた報告書に「独立心に富んだ大名は、心底から攘夷を望んでいるのではなく、外国との交易をこそ望んでいる」と記している。
- ^ 5月4日及び9日の江戸城中における評議には、異例にも水戸藩家老の武田耕雲斎と大場一真斎が参加していた[12]。
- ^ 早朝から各二千ドル入りの箱を積んだ荷馬車がイギリス公使館に到着し、公使館が集めた中国人の貨幣鑑定人が貨幣の検査や勘定を行った上、艦隊の甲板に運ばれた。この作業には3日がかかったという[13]。
出典
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月3日閲覧。
- ^ 百科事典マイペディア. “生麦事件”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2022年3月27日閲覧。
- ^ 「国・神奈川県および横浜市指定・登録文化財目録」横浜市教育委員会 pp.20
- ^ a b c d 『薩藩海軍史』
- ^ 『横浜どんたく』収録「生麦事件の始末」より[注釈 2]。
- ^ 神奈川奉行支配定役並・鶴田十郎覚書(嘉永文久年間見聞雑記)『薩藩海軍史』に収録
- ^ a b c d 『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』より
- ^ a b 『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』より
- ^ 『近世日本国民史 文久大勢一変 維新への胎動(中)生麦事件』引用の「幕府側の所記」
- ^ 『近世日本国民史 文久大勢一変 維新への胎動(中)生麦事件』が引用する越前藩中根雪江の記録『再夢記事』
- ^ 『横浜どんたく』収録「生麦事件の始末」より[注釈 5]。
- ^ 『明治維新と世界認識体系』p.194
- ^ 『一外交官の見た明治維新(上)』
- ^ 坂野正高「駐清英国公使ブルースの見た生麦事件のリチャードソン」(学士会報1974年、第723号)『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄』より孫引き
- ^ "The Anglo-Japanese War." November 15, 1863, New York Times.
- ^ 山田勝「イギリス紳士の幕末」(日本放送出版協会、2004年)『ポンぺ日本滞在見聞記』より孫引き
- ^ 林董 1970, pp. 112–113.
- ^ 『古き日本の暼見』より
生麦事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 15:00 UTC 版)
「ユージン・ヴァン・リード」の記事における「生麦事件」の解説
文久2年8月21日(1862年9月14日)に起きた生麦事件では、事件発生前に島津久光の行列に遭遇するが、下馬し馬を道の端に寄せた上で行列に道を譲り、脱帽して礼を示した。薩摩藩士側もヴァン・リードが行列に礼を示していると了解し、特に問題は発生しなかった。後に英国人4名が薩摩藩士に殺傷される事件が起こったことを聞き、英国人側の非礼な行動を非難する意見を述べている。
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生麦事件
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久光の意志は公武合体と幕府の体制変革であったが、久光が江戸を去るに際し、生麦事件を起こしたため、かえって尊王攘夷派を勢いづかせることになる。
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生麦事件
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「幕末の外国人襲撃・殺害事件」の記事における「生麦事件」の解説
詳細は「生麦事件」を参照 文久2年8月21日 (1862年9月14日)に、横浜近くの生麦村付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人4人に対し、供回りの藩士が斬りつけ、チャールス・リチャードソンが死亡、ウッドソープ・クラークとウィリアム・マーシャルの2名が重傷を負った。この賠償交渉がもつれ、薩英戦争が勃発した。 第一次東禅寺事件以後、英国は横浜に艦隊を常駐させていたが、東インド艦隊司令官ジェームズ・ホープは、攘夷派の強力な取り締まりを幕府に促すため、海上封鎖および一部砲台に対する限定的な攻撃を提案した。この提案は後に本国政府の承認を得ることになるが、このために用意された艦隊が 薩英戦争に転用されることとなった。
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生麦事件
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リチャードソンにとどめを刺したのが海江田とされているが、当時の目撃者の話では茶屋の前に駕籠が置かれ、武士が駕籠の中の人物と相談の上、瀕死のリチャードソンに数名の武士がとどめを刺したとある。その後の薩英戦争では海江田は久光の命を受けて奈良原喜左衛門らとともに、旗艦ユーリアラス号の乗組員を斬殺して軍艦を奪うために船で漕ぎだしたが帰還命令が出て未遂に終わっている。
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生麦事件
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文久2年8月21日(1862年9月14日) - 生麦事件が発生する。横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で、薩摩藩主の父・島津久光の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を島津家家来の奈良原喜左衛門、海江田信義らが殺傷する(死者が1名、負傷者が2名)。 この種の事件は、不平等条約を強制された国々で発生せざるを得ない特徴的な事件である。居留地にいる条約締結国国民は治外法権で保護されている。居留地外では当該国の法に従う事になる。そして、居留地に居住する外国人は遊歩区域が認められている。横浜では「神奈川 六郷川筋を限として其他は各方へ凡十里」とされていた。このグレーゾーンでは、正統性が両国の力関係で決定される。このような紛争を介して欧米列強は、どの国においても「内地自由通行権」の獲得に力を注ぐことになる。 詳細は「生麦事件」を参照
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生麦事件
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英国人を斬りつけた実行犯とされるが、実弟である奈良原繁の孫の奈良原貢(函館オーシャン元投手)によると、斬り殺したのは繁だったが、繁は藩の実力者だったため、喜左衛門が身代わりになったという。鹿児島では、この件で兄弟両家の関係が険悪になり、傷害沙汰もあったと言われる。
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