生駒騒動
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生駒騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 23:19 UTC 版)
生駒家は讃岐(香川県)高松城で、親正・一正・正俊・高俊と四代五十四年にわたって城主を務めた。高俊の代に家臣たちの勢力争いが起こり、「生駒騒動」と呼ばれる御家騒動が起きた。元和7年(1621年)高俊は父正俊の死去により、十一歳で藩主となった。幼かったため藩の主導権をめぐって高俊の伯父で国家老の生駒将監と助左衛門の二人の間に対立が生じた。助左衛門は生駒家後見役で藤堂高虎は前野長康の遺託を受けての推挙で高俊に仕え、如才なく、策を思うように操る人物であったと伝えられている。助左衛門は藤堂高虎や土井利勝(江戸幕府老中、大老職)に取り入り、前野長康の元家臣石崎庄兵衛の子、石崎若狭や同家臣、上坂勘解由らと計って、生駒将監を落とし入れ家老職から追放した。将監は失意のうちに寛政9年(1632年)没した。生駒家の内紛は一旦はこれで終息したかに見えたが、助左衛門は権力を楯に味方する森出羽守を後任の国家老とした。気が納まらないのは将監の嫡子生駒帯刀であった。寛永14年(1637年)、帯刀派は助左衛門一類の者たちの横暴を訴えた。壱岐守生駒高俊付として「生駒帯刀指上訴状」十九ケ条にのぼる訴状を幕閣に上申した。かくて生駒家の内紛は表沙汰となり、豊臣系大名の取りつぶしの口実を幕府に与えることとなった。しかし、助左衛門一派には藤堂高虎、土井利勝は娘が高俊の妻であり幕府大老職があり、両者の斡旋で事は一旦おさまり、破局は避けることができた。その後も両者の対立は解消せず。助左衛門一派は生駒帯刀が水野日向守勝成の娘を室としていたので、陪臣(家来)の身で、大名家と婚姻を結ぶとはもってのほかであると非難したが、その間に助左衛門は病気で死去した。
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