生駒騒動のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 23:19 UTC 版)
助左衛門の息子前野冶太夫が江戸詰家老職を継いだ。生駒帯刀は主君高俊を動かし、石崎、前野両人を罷免したので、両者はこの処置に激怒し、一類の者をはじめ家臣あげて脱藩離散するという事態に至った。生駒家では幕閣の上裁を仰ぐが、事ここに至っては藤堂高次、土井利勝の力量をもってしても幕府を押さえることは許されず、寛永17年7月、生駒家讃岐高松藩十七萬千八百石は公収され、出羽国(秋田県)由利郡矢島へ移され、堪忍料一万石を与えられた。前野冶太夫、石崎若狭は切腹。上坂勘解由、森出雲守両者は多くの家臣と共に脱藩の罪を問われて死刑に処せられた。この森出雲守は、助左衛門の弟・前野自性の娘婿であり、事実上の一門であった。石崎八郎右衛門、安藤蔵人、岡村又兵衛、小野木十左衛門ら、前野氏に仕えた一類の人々も徒党を組んで国を走り出た罪で、いずれも死刑となった。小野木十左衛門は助左衛門の妹を妻とした一門であった。一方、生駒帯刀は忠義の心から事を起したとはいえ、家老としての処置を誤ったという理由で出雲国(島根県)松江藩に預けられ、五十人扶持を与えられた。
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