万役山事件とは? わかりやすく解説

万役山事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/20 01:39 UTC 版)

万役山事件 (まんにゃくやまじけん)は、正徳5年(1715年)、周防国の久米村万役山の松の木一本を巡る争いから、毛利家の宗家である萩藩と支藩の徳山藩との間で領界の争論を生じ、徳山藩改易、藩主の毛利元次が追放されるまでに発展した事件。




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万役山事件

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奈古屋里人」の記事における「万役山事件」の解説

正徳5年1716年8月5日、万役山事件について毛利元次諫言する聞き入れられずに家名断絶追放され三田尻向島現在の防府市)に閉居した。翌年徳山藩改易の報により徳山藩混乱すると、里人徳山藩邸への出仕許され、ただちに徳山伺候し百次郎(後の毛利元尭)に謁した里人は、当面隠忍自重した後に徳山藩再興目指すことを主張し、藩と運命を共にしようとする強硬派人々歴訪して主張緩和努めた里人の兄で当役務めていた奈古屋隆芳も里人考え同意して事を進め徳山藩としては隠忍自重落ち着いた里人早くに元次に諫言勘気被っていた関係もあって、萩藩での評判悪くなかった。そのため、萩藩ではむしろ里人登用し改易後始末一任しようとして、その仕官勧誘したほどであるが、里人巧みに話をそらし、以前師事した青蓮院宮について書道学び兼ねて持病療養をしたいということ口実として、旅券下付申請し京都出て青蓮院宮奉公し再興の手段を巡らした里人京都拠点として、江戸大坂徳山など各地散らばった仲間連絡取り合い情報集めながら時期待ち享保4年1月1719年)、里人は「周防徳山百姓中」と署名し嘆願書老中水野忠之大目付横田重松目付千葉七郎右衛門の3人宛て投書した。この嘆願書幕閣同情勝ち取り改易処置が重過ぎるという意見出て徳山藩再興決定し、吉元から内願した形式をとった後、5月28日に元次のお預け免じ先年の吉元の願い通りに、元次の隠退百次郎の家督相続許可され徳山藩再興された。元次は里人忠誠心感謝し、金1000疋を贈ってその労に報いた

※この「万役山事件」の解説は、「奈古屋里人」の解説の一部です。
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