万役山事件
万役山事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/23 06:51 UTC 版)
正徳5年(1716年)8月5日、万役山事件について毛利元次に諫言するも聞き入れられずに家名断絶・追放され、三田尻向島(現在の防府市)に閉居した。翌年に徳山藩改易の報により徳山藩が混乱すると、里人も徳山の藩邸への出仕を許され、ただちに徳山に伺候し百次郎(後の毛利元尭)に謁した。里人は、当面は隠忍自重した後に徳山藩の再興を目指すことを主張し、藩と運命を共にしようとする強硬派の人々を歴訪して主張の緩和に努めた。里人の兄で当役を務めていた奈古屋隆芳も里人の考えに同意して事を進め、徳山藩としては隠忍自重に落ち着いた。 里人は早くに元次に諫言し勘気を被っていた関係もあって、萩藩での評判は悪くなかった。そのため、萩藩ではむしろ里人を登用し、改易後の始末を一任しようとして、その仕官を勧誘したほどであるが、里人は巧みに話をそらし、以前師事した青蓮院宮について書道を学び、兼ねて持病の療養をしたいということを口実として、旅券の下付を申請し、京都に出て青蓮院宮に奉公し、再興の手段を巡らした。 里人は京都を拠点として、江戸・大坂・徳山・萩など各地に散らばった仲間と連絡を取り合い、情報を集めながら時期を待ち、享保4年1月(1719年)、里人は「周防徳山領百姓中」と署名し、嘆願書を老中水野忠之、大目付横田重松、目付千葉七郎右衛門の3人宛てに投書した。この嘆願書は幕閣の同情を勝ち取り、改易は処置が重過ぎるという意見が出て徳山藩再興が決定し、吉元から内願した形式をとった後、5月28日に元次のお預けを免じ、先年の吉元の願い通りに、元次の隠退と百次郎の家督相続を許可され、徳山藩は再興された。元次は里人の忠誠心に感謝し、金1000疋を贈ってその労に報いた。
※この「万役山事件」の解説は、「奈古屋里人」の解説の一部です。
「万役山事件」を含む「奈古屋里人」の記事については、「奈古屋里人」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 万役山事件のページへのリンク