萩藩と徳山藩の争いとは? わかりやすく解説

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萩藩と徳山藩の争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 02:58 UTC 版)

万役山事件」の記事における「萩藩と徳山藩の争い」の解説

萩藩代官・井上兵衛事件の顛末萩藩報告し徳山藩詰問状を発したが、これに応対した徳山藩代官・米田儀兵衛問題の場所が徳山藩領に相違ない主張して譲らなかった。この時萩藩政務担当していた浦元敏と国司広通は事を穏便に解決しようと、徳山藩重臣縁故の深い奈古屋匡直(奈古与左衛門徳山藩家老・奈古屋隆芳(玄蕃)と徳山藩士・奈古屋里人叔父)を特使として徳山藩派遣したが、別段謝罪意思表明しなかった。そこで、浦元敏は改め徳山藩家老交渉し解決策として、明らかに下手人と見られる右衛門死罪要求したが、これもまた不調に終わる。そのうちに、西久米村百姓らは、年来自分たちの山だと信じてきた山を徳山領と主張され、非を喜兵衛らのみに帰して、里右衛門咎めがないのを不満とし、一揆にも及びかねない形勢となったので、吉元は宍戸就延特使として派遣し直接徳山藩藩主・毛利元次反省促した。しかし元次は依然として謝罪しようとはしなかった。これに対し同年8月5日徳山藩士・奈古屋里人万役山事件の処理について元次を強く諫めたが、元次は聞き入れず里人徳山城下から追放した里人やむなく周防国佐波郡三田尻塩浜新屋右衛門のもとに身を退きその後三田尻向島寓居構え、事の成り行き見守った

※この「萩藩と徳山藩の争い」の解説は、「万役山事件」の解説の一部です。
「萩藩と徳山藩の争い」を含む「万役山事件」の記事については、「万役山事件」の概要を参照ください。

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