萩藩からの独立騒動
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寛永11年(1634年)7月、将軍・徳川家光が諸大名に改めて領知朱印状を与えるために江戸へ上る。これを好機と見た毛利秀元は、家光に直接自らの所領を安堵してもらうことで萩藩からの独立を図り、これに就隆も同調した。秀元は縁戚の永井尚政 の協力を受け、老中の土井利勝と酒井忠勝にたびたび密かに面会し、水面下で独立運動を展開した。 同年閏7月11日、領知朱印状の交付に先立ち、萩藩の公儀人である福間就辰は、老中の土井利勝と酒井忠勝から従来の領知朱印状の写しを朱印改奉行に提出することを求められた。福間就辰は朱印改奉行の永井尚政、安藤重政、内藤忠重に朱印状の写しを提出したところ、永井尚政は朱印状の原本を拝見したいと福間就辰に依頼した。この不審な対応に対し福間就辰は、今回の朱印改に乗じて毛利秀元の知行が萩藩の内分知であるとする文言を書き変えるつもりではないかと推測している。 秀元と就隆の動きを察知した秀就は、朱印改奉行の永井尚政、安藤重政、内藤忠重の3名に使者を派遣すると共に自ら土井利勝を訪ね、従来通り周防・長門2か国の領知朱印状を頂きたいと依頼した。さらに懇意にしていた大目付の柳生宗矩にも協力を依頼した。 閏7月16日、二条城に登城した秀就は、従来通り周防・長門2か国の領知朱印状を受け取った。これにより秀元と就隆が企てた萩藩からの独立は阻止され、以後、江戸時代を通して本藩と支藩の関係は変わらなかった。 寛永12年(1635年)、幕府から半蔵門の手伝普請を命じられた秀就は、秀元と就隆に負担役の分担を指示したが、秀元と就隆は在江戸の頃には負担役の分担を免除されていたこと を理由に普請役の分担を拒否。 これに対して秀就は、普請役の免除は毛利輝元と幕府の間で特別に取り決められたものであるため、現状では通用するものではないと反論したものの、問題を大きくすることを嫌って独力で普請を終えた。普請を終えた秀就は老中の土井利勝と松平信綱に対して、今後秀元と就隆が普請役の分担を拒否した場合は幕府からも強く分担を指示するように依頼し、土井利勝と松平信綱は秀就の依頼に理解を示した。また、事態を見かねた柳生宗矩と永井尚政が秀就と秀元の仲介となり、久留米藩主の有馬豊氏と旗本の安藤定智が秀就と就隆の仲介となることで三者の和解が成立した。
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