萩藩からの独立騒動とは? わかりやすく解説

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萩藩からの独立騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 03:22 UTC 版)

毛利就隆」の記事における「萩藩からの独立騒動」の解説

寛永11年1634年7月将軍徳川家光諸大名改め領知朱印状与えるために江戸へ上る。これを好機見た毛利秀元は、家光直接自らの所領安堵してもらうことで萩藩からの独立図り、これに就隆も同調した。秀元は縁戚永井尚政協力を受け、老中土井利勝酒井忠勝にたびたび密かに面会し水面下独立運動展開した同年7月11日領知朱印状交付先立ち萩藩公儀人である福間就辰は、老中土井利勝酒井忠勝から従来領知朱印状写し朱印奉行提出することを求められた。福間就辰は朱印奉行永井尚政安藤重政内藤忠重朱印状写し提出したところ、永井尚政朱印状原本拝見したい福間就辰に依頼した。この不審な対応に対し福間就辰は、今回朱印改に乗じて毛利秀元知行萩藩内分知であるとする文言書き変えるつもりではないか推測している。 秀元と就隆の動き察知した秀就は、朱印奉行永井尚政安藤重政内藤忠重の3名に使者派遣すると共に自ら土井利勝訪ね従来通り周防長門2か国の領知朱印状頂きたい依頼した。さらに懇意にしていた大目付柳生宗矩にも協力依頼した。 閏7月16日二条城登城した秀就は、従来通り周防長門2か国の領知朱印状受け取った。これにより秀元と就隆が企てた萩藩からの独立阻止され以後江戸時代通して本藩と支藩の関係は変わらなかった。 寛永12年1635年)、幕府から半蔵門の手普請命じられた秀就は、秀元と就隆に負担役の分担指示したが、秀元と就隆は在江戸の頃には負担役の分担免除されていたこと を理由普請役分担拒否。 これに対して秀就は、普請役免除毛利輝元幕府の間で特別に取り決められたものであるため、現状では通用するものではないと反論したものの、問題大きくすることを嫌って独力で普請終えた普請終えた秀就は老中土井利勝松平信綱に対して今後秀元と就隆が普請役分担拒否した場合幕府からも強く分担指示するように依頼し土井利勝松平信綱は秀就の依頼理解示したまた、事態を見かねた柳生宗矩永井尚政が秀就と秀元の仲介となり、久留米藩主の有馬豊氏旗本安藤定智が秀就と就隆の仲介となることで三者和解成立した

※この「萩藩からの独立騒動」の解説は、「毛利就隆」の解説の一部です。
「萩藩からの独立騒動」を含む「毛利就隆」の記事については、「毛利就隆」の概要を参照ください。

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