徳山における運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 02:58 UTC 版)
一方、徳山に戻った石川藤九郎と恵周坊は、百姓一揆の運動に着手。藤九郎は同じく弓組であった玉井盛道(弥一右衛門)も同志とし、山田九兵衛の子・武兵衛は、徳山の代官・中山忠右衛門の祐筆となり萩藩の内部から運動を支援した。そのうちに大坂の山田九兵衛も徳山に戻り、徳山周辺のみならず三田尻や山口方面に至るまで豪農や豪商を説得して資金協力を要請して京都の里人らの活動資金とした。百姓や町人の一揆の計画も、玉井盛道宅を拠点として着々と進められたが、11月下旬に徳山の町医者・十時宗扑と町人・徳左衛門らの密告によって計画は頓挫。一揆の会合中に捕吏の襲撃に遭い、畳屋新平、小沢町の貞六と新八、鳥井町の新右衛門、橋本町の野村喜右衛門、東横町の煮方小頭であった杢右衛門らが捕らえられ、石川藤九郎は豊前国、恵周坊は京都、玉井盛道は奈古屋勘右衛門を頼って津和野へとそれぞれ逃亡した。一揆の首謀者と目された畳屋新平、貞六、新八、新右衛門の4名は厳重な取り調べの後に見島へ流罪となった。畳屋新平は見島で病死したが、他の3名はその後許されて徳山に帰還している。この徳山での一揆計画は失敗に終わったものの、徳山において百姓や町人らによって一揆が計画された事実は後に里人らの活動に利することとなる。
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