徳山藩改易
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正徳5年(1715年)に万役山事件を引き起こして本家の萩藩と対立し、この騒動が原因で幕府の命令により、翌年に徳山藩は改易されて萩藩に一時編入され、元次は身柄を出羽新庄藩に移された。 その後、奈古屋里人ら元の家臣団の尽力、また萩藩主の吉元も元次の隠居は要求したが改易は想定外で、再興を幕府に願い出たこともあり、元次の次男・元堯が享保4年(1719年)5月に藩主となることを許されて徳山藩が再興された。しかし、元次は流罪中に病にかかっており、同年11月19日に京都で死去した。享年51。法号は曹源院殿性海滴水大居士。墓所は山口県周南市の大成寺徳山毛利家墓所や、東京都港区愛宕の青松寺。
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徳山藩改易
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徳山藩改易の報は4月22日の夕方に児玉忠順(友右衛門)によって徳山にもたらされ、直ちに市内へも伝わった。藩士や領民の皆が動揺し、大混乱に陥った。徳山の家中も事の意外な発展に驚き、執政の奈古屋隆芳は直ちに粟屋次興(内匠)、福間次遥(外記)、鳥羽次長(図書)ら重臣を集め、硬軟両派に分かれて夜を徹し対応を協議した。奈古屋隆芳を始めとする強硬派は、城を枕に討死しようとも元次の存念を継いで処置に反抗する事こそ武士の本懐であると主張。一方、粟屋次興を始めとする穏健派は、今は隠忍自重し、百次郎を推して徳山藩再興を目指すことが時宜に適した最良の策であると主張し、粟屋次興は毛利元平に徳山藩再興への尽力を依頼するため、馬廻の宍戸忠正(亘)と荘原信成(正右衛門)を連れて大坂へと向かった。家中の意見も容易に統一されないままに日が経ち、一時の興奮が鎮まるにつれて、これ以上は萩藩との摩擦を避け、徳山藩再興に全力を注ぐこととなった。そこで、萩藩の要求に応じて里右衛門を引き渡し、屋敷の接収にも応じたため、5月1日に萩藩は厚狭毛利家の毛利就久に屋敷の接収を命じ、210余人を付けて徳山へと派遣。国司頼母が150人を率いて久米村方面を警固し、益田就高が130人を率いて百次郎らの迎えとして徳山へ出張した。百次郎らは福間堯明(十蔵)や荘原信知(正七)ら家士5人と20人ほどの女中衆を連れて5月5日に徳山を出発し、途中山口に一泊して、翌日に萩へ到着。初めは大野毛利家の毛利元雅の屋敷に入ったが、後に吉敷毛利家の毛利広包の屋敷を借用し移り住んだ。 5月9日には屋敷の接収が完了したが、同日に徳山藩士の黒川三郎左衛門が発狂し、弟の黒川吉三郎と家臣1人に斬り掛かり、更に阿曽沼勝之進を傷つけるという事件が起こっている。6月12日に江戸在府中の三次郎らも江戸を出発して7月9日に萩へ到着し、毛利広包の屋敷へ入った。徳山の家中は9月30日を限って立ち退きを命じられ、萩その他の縁故者を頼ってそれぞれ移転した。この時吉元は徳山家中の身分に応じて引越料を支給している。立ち退きの終了した旧徳山藩領は萩藩の一つの行政区画とされ、中山忠右衛門が徳山代官に任じられた。
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