徳山藩改易とは? わかりやすく解説

徳山藩改易

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:39 UTC 版)

毛利元次」の記事における「徳山藩改易」の解説

正徳5年1715年)に万役山事件引き起こして本家萩藩対立し、この騒動原因幕府命令により、翌年徳山藩改易されて萩藩一時編入され、元次は身柄出羽新庄藩移された。 その後奈古屋里人ら元の家臣団尽力、また萩藩主の吉元も元次の隠居要求した改易想定外で、再興幕府願い出たこともあり、元次の次男・元堯が享保4年1719年5月藩主となることを許され徳山藩再興された。しかし、元次は流罪中に病にかかっており、同年11月19日京都死去した享年51法号は曹源院殿性海滴水居士墓所山口県周南市大成寺徳山毛利家墓所や、東京都港区愛宕青松寺

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徳山藩改易

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 02:58 UTC 版)

万役山事件」の記事における「徳山藩改易」の解説

徳山藩改易の報は4月22日夕方児玉忠順(友右衛門)によって徳山もたらされ直ち市内へも伝わった藩士領民の皆が動揺し大混乱陥った徳山家中も事の意外な発展驚き執政奈古屋隆芳は直ち粟屋次興(内匠)、福間次遥(外記)、鳥羽次長図書)ら重臣集め硬軟両派に分かれて夜を徹し対応を協議した奈古屋隆芳を始めとする強硬派は、城を討死しようとも元次の存念継いで処置反抗する事こそ武士の本懐であると主張一方粟屋次興を始めとする穏健派は、今は隠忍自重し百次郎を推して徳山藩再興目指すことが時宜適した最良の策であると主張し粟屋次興は毛利元平徳山藩再興への尽力依頼するため、馬廻宍戸忠正(亘)と荘原信成(正右衛門)を連れて大坂へと向かった家中意見容易に統一されないままに日が経ち一時興奮鎮まるにつれてこれ以上萩藩との摩擦避け徳山藩再興全力を注ぐこととなった。そこで、萩藩要求に応じて右衛門引き渡し屋敷接収にも応じたため、5月1日萩藩厚狭毛利家毛利就久屋敷接収命じ210余人付けて徳山へと派遣国司頼母150人を率いて久米村方面警固し益田就高130人を率いて百次郎らの迎えとして徳山出張した百次郎らは福間堯明(十)や荘原信知(正七)ら家士5人と20人ほどの女中衆を連れて5月5日徳山出発し途中山口一泊して、翌日萩へ到着初め大野毛利家毛利元雅屋敷入ったが、後に吉敷毛利家毛利広包屋敷借用し移り住んだ5月9日には屋敷接収完了したが、同日徳山藩士の黒川三郎左衛門発狂し、弟の黒川三郎家臣1人に斬り掛かり、更に阿曽沼勝之進を傷つけるという事件が起こっている。6月12日江戸在府中の三次郎らも江戸出発して7月9日萩へ到着し毛利広包屋敷入った徳山家中9月30日限って立ち退き命じられその他の縁故者頼ってそれぞれ移転した。この時吉元は徳山家中身分に応じて引越料を支給している。立ち退き終了した旧徳藩領萩藩一つ行政区画とされ、中山右衛門徳山代官任じられた。

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