江戸・京都における再興運動
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「万役山事件」の記事における「江戸・京都における再興運動」の解説
享保2年(1717年)7月、岡部忠政(六七)、戸田茂貞(佐右衛門)・安貞(仁左衛門)父子、石川藤九郎ら旧徳山藩士と興元寺の伴僧恵周坊が相次いで徳山を脱し、下総小見川藩主・内田正偏の家臣である吉弘直信を頼って江戸に上った。これは内田正偏の正室・百子が元次の次女であり、吉弘直信が戸田茂貞の兄であった縁を頼ったものである。石川藤九郎は江戸へ向かう途中で京都に立ち寄り、同志の名前を告げて里人へも協力を依頼したが、里人は石川藤九郎の人となりを危ぶんだため、徳山藩再興の志を明かさず、この時は協力関係にはならなかった。 江戸へ到着した石川藤九郎らが吉弘直信を訪ねて指示を請うたところ、百子へ宛てた里人の手紙から里人に徳山藩再興の志がある事に感づいていた直信は、今後は里人を盟主として事を進めるよう勧めて里人への紹介状を戸田茂貞に与え、百子も石川藤九郎らに旅費を支給し、活動を支援した。そこで石川藤九郎と恵周坊は徳山に戻って、百姓や町人を説得して再び大々的な徳山藩再興の嘆願運動を興す事となり、岡部忠政と戸田安貞は江戸に留まって活動することとなった。岡部忠政は幕府の小姓番衆・松平内匠に奉公し、毎日の登城や将軍の鷹狩り等に随行して情報を収集した。戸田安貞は江戸市中を徘徊し、元次に対する世論を探るとともに、国元の風説を巷間へ流布し、諸大名や幕府官吏の耳に入るよう努めた。これらの活動によって集められた情報は、吉弘直信によって細大漏らさず、京都の里人のもとへ届けられた。 11月18日、戸田茂貞は京都の里人を訪ねて今後の対応を協議したが、この時茂貞が目をつけたのは、徳山の町人であった山田九兵衛であった。山田九兵衛はかつて須万村の紙見取役を務めており、徳山藩改易後は吉川氏の大坂蔵元である塩屋新兵衛の手代となって大坂に紙問屋を開いていた。この塩屋新兵衛は紀州藩出身の商人で、兄の雑賀屋三郎四郎は紀州藩の御用達を務めていた。この前年に紀州藩主徳川吉宗が8代将軍となっていたが、雑賀屋三郎四郎は吉宗の母・浄円院とその兄の新山治部斎が和歌山に住んでいた頃から出入りし、更には吉宗の側近として江戸で活躍していた有馬氏倫や加納久通らの屋敷へも頻繁な出入りを許されていた。そこで茂貞は、山田九兵衛、塩屋新兵衛、雑賀屋三郎四郎という経路を利用して幕府へ直接働きかけることが最上と判断。以後、大坂方面の活動を茂貞が受け持つこととなる。
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