江戸・京都における再興運動とは? わかりやすく解説

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江戸・京都における再興運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 02:58 UTC 版)

万役山事件」の記事における「江戸・京都における再興運動」の解説

享保2年1717年7月岡部忠政(六七)、戸田茂貞(佐右衛門)・安貞仁左衛門父子石川藤九郎旧徳藩士興元寺伴僧恵周坊が相次いで徳山脱し下総小見川藩主・内田正偏家臣である吉弘直信を頼って江戸上った。これは内田正偏正室百子が元次の次女であり、吉弘直信が戸田茂貞の兄であった縁を頼ったのである石川藤九郎江戸へ向かう途中で京都立ち寄り同志の名前を告げて里人へも協力依頼したが、里人石川藤九郎人となりを危ぶんだため、徳山藩再興の志を明かさず、この時は協力関係にはならなかった。 江戸へ到着した石川藤九郎らが吉弘直信を訪ねて指示請うたところ、百子宛てた里人の手紙から里人徳山藩再興の志がある事に感づいていた直信は、今後里人盟主として事を進めるよう勧めて里人への紹介状戸田茂貞与え百子石川藤九郎らに旅費支給し活動支援した。そこで石川藤九郎と恵周坊は徳山戻って百姓町人説得して再び大々的徳山藩再興嘆願運動興す事となり、岡部忠政と戸田安貞江戸に留まって活動することとなった岡部忠政は幕府小姓番衆・松平内匠奉公し毎日登城将軍鷹狩り等に随行して情報収集した戸田安貞江戸市中徘徊し、元次に対す世論を探るとともに国元風説巷間流布し諸大名幕府官吏耳に入るよう努めた。これらの活動によって集められ情報は、吉弘直信によって細大漏らさず京都里人のもとへ届けられた。 11月18日戸田茂貞京都里人訪ねて今後の対応協議したが、この時茂貞が目をつけたのは、徳山町人であった山田九兵衛であった山田九兵衛はかつて須万の紙見取役を務めており、徳山藩改易後は吉川氏大坂蔵元である塩屋新兵衛の手となって大坂紙問屋開いていた。この塩屋新兵衛紀州藩出身商人で、兄の雑賀三郎四郎紀州藩御用達務めていた。この前年に紀州藩主徳川吉宗8代将軍となっていたが、雑賀三郎四郎吉宗の母・浄円院とその兄の新山治部斎が和歌山住んでいた頃から出入りし更には吉宗側近として江戸で活躍していた有馬氏倫加納久通らの屋敷へも頻繁な出入り許されていた。そこで茂貞は、山田九兵衛塩屋新兵衛雑賀三郎四郎という経路利用して幕府直接働きかけることが最上判断以後大坂方面活動を茂貞が受け持つこととなる。

※この「江戸・京都における再興運動」の解説は、「万役山事件」の解説の一部です。
「江戸・京都における再興運動」を含む「万役山事件」の記事については、「万役山事件」の概要を参照ください。

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