紀州藩主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:24 UTC 版)
宝永2年(1705年)に長兄の綱教(紀州藩第3代藩主)が死去し、三兄の頼職が跡を継ぐ。この際、頼職が領していた高森藩は幕府に収公された。後に3万石の内、1万石分が加増編入されたため葛野藩は4万石となった。 しかし同年のうちに父の光貞、やがて頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州徳川家を相続し第5代藩主に就任する。藩主に就任する際、将軍・綱吉から偏諱を授かり、(徳川)吉宗と改名する。紀州藩相続時に葛野藩領は幕府に収公され、天領となった。 宝永3年(1706年)に二品親王伏見宮貞致親王の王女・真宮理子を御簾中(正室)に迎えているが、宝永7年(1710年)に死別した。 宝永7年(1710年)4月に紀州入りした吉宗は、藩政改革に着手する。藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図る。自らも木綿の服を着て率先した。2人の兄と父の葬儀費用や幕府から借用していた10万両の返済、家中への差上金の賦課、藩札の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害である1707年宝永地震・津波の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮する。また、和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して直接訴願を募り、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも努めている。 紀州藩主時代には、女中との間に長男・長福丸(のちの徳川家重)、二男・小次郎(のちの田安宗武)が誕生。 紀州藩主としての治世は10年6か月であり、この間の江戸参府4回、紀州帰国3回、紀州在国の通算は2年4か月であった。
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