紀州藩のお雇い外国人とは? わかりやすく解説

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紀州藩のお雇い外国人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 18:01 UTC 版)

カール・ケッペン」の記事における「紀州藩のお雇い外国人」の解説

1868年明治元年)、明治維新後れを取った紀州藩明治初年より藩主徳川茂承一度失脚した津田出執政抜擢して藩政改革励み洋式兵制取り入ることを決定したこの間、縁のある陸奥宗光助言けもあった。1869年明治2年2月蘭学通じていた津田は「軍務局」を新設して下位部局に砲・騎・歩・工の四寮を置いた7月に藩大参事となった津田は、10月には交代兵制度という基本的に身分問わない徴兵検査による3年現役徴兵制度施行し近代的な軍備充実図った。その課程で、明治政府今後陸軍兵制フランス式とすることを決定したが。和歌山藩についてはテストケースとして適用除外された。 幕末から日本大阪川口ではプロイセン人貿易商のレーマン・ハルトマン商会武器輸出入扱って各藩出入りしていたが、明治になってから紀州藩注文を受け最新鋭後装式ライフルであるドライゼ銃を3,000ドイツから取り寄せることとなった。長射程かつ速射優れた銃ではあったが専用弾薬を必要とし、その運用には弾薬製造能力必須であり、洋式軍隊教官合わせてプロイセン式の指導者求められた。その頃ケッペンレーマン商会倉庫番をしていた縁で、銃を調達しにビュッケプルグを来訪していたカール・レーマン招聘応じることとなった1868年明治元年)末にハンブルク出港してドライゼ銃と共に来日したのは1869年明治2年5月19日であった当初紀州藩明治政府届け出た採用名目は「火工術伝習」・「鍼銃紙管製造教授ノタメ」の「銃工」であって当初半年契約であったが、後に期間延長のうえ「陸軍教師」に改められた。 紀州藩では軍事指導を行うために、1869年明治2年11月14日伝習御用総括塩路嘉一郎伝習御用掛りに岸彦九郎岡本四郎長屋喜弥太阿部吉・北畠道竜の6人が任命されケッペンからの指導実施移したケッペン本国では小国下士官であったが、新式銃の技術的理解にも造詣深く兵制部隊運用技術的な助言により紀州藩首脳信頼得た12月には軍務局廃止され代わりに「戌営」と士官学校である「兵学寮」が設置された。教官増員図られ1870年明治3年7月には横浜駐在ドイツ領事フォン・ブラントの推薦ヘルム兄弟和歌山入りした。ケッペンフランス式採用していた岡本柳之助砲兵隊除き軍事顧問として新兵採用と訓練士官教育、歩騎の操練職制規律などの指導伝習助言に力を尽くしプロイセン軍隊育成したドイツ人教官陣はケッペン首席に、工兵担当のユリウス・ヘルムとケッペン副官のアドルフ・ヘルム兄弟居て軍事調練を行う他、少し遅れた1870年明治3年7月にハイトケンペル(製靴師)とルボスキー(製革師)が来日して洋式製靴製革技術指導行った。(11月には洋行中の陸奥宗光がビュッケプルグを訪れてケッペンの妻に多大な贈り物をしたり、ケッペンの上フンク少佐来日打診している。) 紀州藩の戊営幹部部隊長主だった顔ぶれ以下の通りであり、各約600人で構成された5個歩兵大隊、2個砲兵中隊、約150人の騎兵隊工兵隊輜重隊火薬所では新式銃の薬莢日本人の手により製造された。 戊営都督 津田出(後に陸軍少将大蔵少輔元老院議官) 戊営副都塩路嘉一郎(後に兵部省元老院出仕) 戊営副都次席 鳥尾小弥太長州藩出身。後に陸軍中将子爵歩兵大隊長 長屋喜弥太(後に初代和歌山市長) 歩兵大隊北畠道竜(法福寺住職歩兵大隊長 岡本兵四郎(後に陸軍中将騎兵大隊阿部砲兵大隊長 岡本柳之助(後に陸軍砲兵少佐韓国宮内府軍事顧問独乙教師 小松済治会津藩出身。後に司法省民事局長) ケッペン背広服着用し乗馬姿で令笛付の乗馬用鞭を持ち日曜日除いて士官兵卒毎日調練した。訓練岡山操練所・湊御殿その他市内空地等で行われ号令は「マルス進め)」「ハルト止まれ)」などドイツ語行われたケッペン次第日本語覚えてゆき、日本語での指導も行うようになった訓練進展により、消耗激し日本式草履では長距離行軍差し障りがあるため、革靴調達だけではなく製造能力整備し軍服綿ネル製造から始まり士卒肋骨服帽子着用した、この産業失業した士族授産にも利用された。これらの製造能力は後に「紀州ネル」と呼ばれる綿フランネル産業として紀州根付いた。革と食肉調達についても紀州藩では牧場建設して、更に牛乳調達した明治政府数年先行する形で行われた紀州藩徴兵制度基本的に身分に関係なく召集され兵役中の者を士分処遇するもので、最新鋭プロイセン訓練諸藩諸国関心呼び見学者和歌山来訪した1870年明治3年)には薩摩西郷従道続いて大阪から山田顕義兵部大丞長州藩出身)、さらに薩摩村田新八西郷隆盛代理参観した。また、諸国外交官も、10月駐日アメリカ公使デロング駐日イギリス公使パークス1871年明治4年2月には駐日プロイセン代理公使マックス・フォン・ブラントドイツ軍艦ヘルダ号(フリゲート)で訪れて1週間滞在した。ヘルダ号の士官見た観兵式訓練では、600人の大隊4個がプロイセン式に統率された隊列一斉に行軍発砲する運動見ており、更に兵舎見学では入室に際して直立不動姿勢からの挙手出迎えられたことに驚いている。弾薬製造所では1日1万と言われる工程見学したまた、生活様式についても一般日本人が床に寝るのに対し兵卒兵舎ベッド椅子使った生活を送り食事牛肉食べ洋式軍服着て革靴を履き、頭髪も髷を落として西洋軍隊風に刈り込んでいた。士官学校である兵学寮では図書館軍事書籍翻訳本備えられており、対応した岡本四郎ドイツ語を話すことは未熟であったが、聞き取り読み取りには不自由していない様子であったという。ブラント公使視察結果本国宰相ビスマルク伝えており、特旨を以てケッペン陸軍少尉進級させることとなった。 これらの驚くべき改革成功1871年明治4年)の廃藩置県紀州藩解体されて突然終わりを告げた11月には藩兵の解散命令されたか、先立つ6月ケッペン教官増員のために日本離れ8月にはドイツへ到着して戻って新人材を集めていた。再来日したのは12月であったが、翌1872年明治5年1月にはケッペンは6人(退役砲兵少尉ブリーベ、在郷陸軍少尉レンツ火器技術兵シュミット騎兵下士官ランドフスキー、工兵ランケン軍医大尉ブフルークマッハ博士)のドイツ人軍事教官と共に解雇され違約金払われた。雇用斡旋にあたり明治天皇からドイツ高官8人に日本刀一振りずつが贈呈された。 ケッペン和歌山1869年明治2年11月から1871年明治4年6月までの間に約6,000人の紀州藩兵を訓練するとともに士官育て弾薬軍服軍靴などの製造指導衣食住などの洋式生活の導入指導部に対して兵制改善助言技術指導行った。。廃藩置県終了した紀州藩兵制改革は、徴兵制度では明治政府より3年先行しており、ドイツ式プロイセン式)の導入としては15年先行していた。

※この「紀州藩のお雇い外国人」の解説は、「カール・ケッペン」の解説の一部です。
「紀州藩のお雇い外国人」を含む「カール・ケッペン」の記事については、「カール・ケッペン」の概要を参照ください。

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