紀州藩のお雇い外国人
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「カール・ケッペン」の記事における「紀州藩のお雇い外国人」の解説
1868年(明治元年)、明治維新で後れを取った紀州藩は明治初年より藩主徳川茂承が一度は失脚した津田出を執政に抜擢して藩政改革に励み、洋式兵制を取り入ることを決定した。この間、縁のある陸奥宗光の助言けもあった。1869年(明治2年)2月、蘭学に通じていた津田は「軍務局」を新設して下位部局に砲・騎・歩・工の四寮を置いた。7月に藩大参事となった津田は、10月には交代兵制度という基本的に身分を問わない徴兵検査による3年現役の徴兵制度を施行して近代的な軍備の充実を図った。その課程で、明治政府は今後の陸軍兵制をフランス式とすることを決定したが。和歌山藩についてはテストケースとして適用が除外された。 幕末から日本の大阪川口ではプロイセン人貿易商のレーマン・ハルトマン商会が武器の輸出入を扱って各藩に出入りしていたが、明治になってから紀州藩の注文を受け最新鋭の後装式ライフルであるドライゼ銃を3,000丁ドイツから取り寄せることとなった。長射程かつ速射に優れた銃ではあったが専用の弾薬を必要とし、その運用には弾薬の製造能力が必須であり、洋式軍隊の教官と合わせてプロイセン式の指導者が求められた。その頃にケッペンはレーマン商会の倉庫番をしていた縁で、銃を調達しにビュッケプルグを来訪していたカール・レーマンの招聘に応じることとなった。1868年(明治元年)末にハンブルクを出港してドライゼ銃と共に来日したのは1869年(明治2年)5月19日であった。当初、紀州藩が明治政府に届け出た採用の名目は「火工術伝習」・「鍼銃紙管製造教授ノタメ」の「銃工」であって当初は半年の契約であったが、後に期間延長のうえ「陸軍教師」に改められた。 紀州藩では軍事指導を行うために、1869年(明治2年)11月14日に伝習御用総括に塩路嘉一郎、伝習御用掛りに岸彦九郎・岡本兵四郎・長屋喜弥太・阿部林吉・北畠道竜の6人が任命されケッペンからの指導を実施に移した。ケッペンは本国では小国の下士官であったが、新式銃の技術的理解にも造詣が深く、兵制・部隊運用・技術的な助言により紀州藩首脳の信頼を得た。12月には軍務局が廃止され、代わりに「戌営」と士官学校である「兵学寮」が設置された。教官の増員も図られ、1870年(明治3年)7月には横浜駐在のドイツ領事フォン・ブラントの推薦でヘルム兄弟が和歌山入りした。ケッペンはフランス式を採用していた岡本柳之助の砲兵隊を除き、軍事顧問として新兵の採用と訓練、士官の教育、歩騎の操練、職制規律などの指導・伝習・助言に力を尽くし、プロイセン式軍隊を育成した。 ドイツ人教官陣はケッペンを首席に、工兵担当のユリウス・ヘルムとケッペンの副官のアドルフ・ヘルム兄弟が居て軍事調練を行う他、少し遅れた1870年(明治3年)7月にハイトケンペル(製靴師)とルボスキー(製革師)が来日して洋式製靴・製革の技術指導を行った。(11月には洋行中の陸奥宗光がビュッケプルグを訪れてケッペンの妻に多大な贈り物をしたり、ケッペンの上官フンク少佐に来日を打診している。) 紀州藩の戊営幹部・部隊長の主だった顔ぶれは以下の通りであり、各約600人で構成された5個歩兵大隊、2個砲兵中隊、約150人の騎兵隊、工兵隊、輜重隊、火薬所では新式銃の薬莢が日本人の手により製造された。 戊営都督 津田出(後に陸軍少将、大蔵少輔、元老院議官) 戊営副都督 塩路嘉一郎(後に兵部省、元老院出仕) 戊営副都督次席 鳥尾小弥太(長州藩出身。後に陸軍中将、子爵) 歩兵大隊長 長屋喜弥太(後に初代和歌山市長) 歩兵大隊長 北畠道竜(法福寺住職) 歩兵大隊長 岡本兵四郎(後に陸軍中将) 騎兵大隊長 阿部林吉 砲兵大隊長 岡本柳之助(後に陸軍砲兵少佐、韓国宮内府軍事顧問) 独乙学教師 小松済治(会津藩出身。後に司法省民事局長) ケッペンは背広服を着用し、乗馬姿で令笛付の乗馬用鞭を持ち、日曜日を除いて士官や兵卒を毎日調練した。訓練は岡山操練所・湊御殿その他市内空地等で行われ、号令は「マルス(進め)」「ハルト(止まれ)」などドイツ語で行われた。ケッペンも次第に日本語を覚えてゆき、日本語での指導も行うようになった。訓練の進展により、消耗の激しい日本式の草履では長距離行軍に差し障りがあるため、革靴は調達だけではなく製造能力を整備し、軍服も綿ネルの製造から始まり士卒は肋骨服に帽子を着用した、この産業は失業した士族の授産にも利用された。これらの製造能力は後に「紀州ネル」と呼ばれる綿フランネル産業として紀州に根付いた。革と食肉の調達についても紀州藩では牧場を建設して、更に牛乳も調達した。 明治政府に数年先行する形で行われた紀州藩の徴兵制度は基本的に身分に関係なく召集され、兵役中の者を士分に処遇するもので、最新鋭のプロイセン式訓練は諸藩諸国の関心を呼び、見学者が和歌山に来訪した。1870年(明治3年)には薩摩の西郷従道、続いて大阪から山田顕義兵部大丞(長州藩出身)、さらに薩摩の村田新八が西郷隆盛の代理で参観した。また、諸国の外交官も、10月に駐日アメリカ公使デロング、駐日イギリス公使パークス、1871年(明治4年)2月には駐日プロイセン代理公使マックス・フォン・ブラントがドイツ軍艦ヘルダ号(フリゲート)で訪れて1週間滞在した。ヘルダ号の士官が見た観兵式の訓練では、600人の大隊4個がプロイセン式に統率された隊列で一斉に行軍・発砲する運動を見ており、更に兵舎の見学では入室に際して直立不動の姿勢からの挙手で出迎えられたことに驚いている。弾薬製造所では1日1万発と言われる工程を見学した。また、生活様式についても一般の日本人が床に寝るのに対し、兵卒は兵舎でベッド・椅子・机を使った生活を送り、食事は牛肉を食べ、洋式の軍服を着て革靴を履き、頭髪も髷を落として西洋軍隊風に刈り込んでいた。士官学校である兵学寮では図書館に軍事書籍や翻訳本が備えられており、対応した岡本兵四郎はドイツ語を話すことは未熟であったが、聞き取りと読み取りには不自由していない様子であったという。ブラント公使は視察結果を本国の宰相ビスマルクに伝えており、特旨を以てケッペンを陸軍少尉に進級させることとなった。 これらの驚くべき改革と成功は1871年(明治4年)の廃藩置県で紀州藩が解体されて突然終わりを告げた。11月には藩兵の解散が命令されたか、先立つ6月にケッペンは教官増員のために日本を離れ、8月にはドイツへ到着して戻って新人材を集めていた。再来日したのは12月であったが、翌1872年(明治5年)1月にはケッペンは6人(退役砲兵少尉ブリーベ、在郷陸軍少尉レンツ、火器技術兵シュミット、騎兵下士官ランドフスキー、工兵ランケン、軍医大尉ブフルークマッハ博士)のドイツ人軍事教官と共に解雇され、違約金が払われた。雇用の斡旋にあたり明治天皇からドイツ高官8人に日本刀一振りずつが贈呈された。 ケッペンは和歌山で1869年(明治2年)11月から1871年(明治4年)6月までの間に約6,000人の紀州藩兵を訓練するとともに、士官を育て、弾薬・軍服・軍靴などの製造指導、衣食住などの洋式生活の導入、指導部に対して兵制改善の助言や技術指導を行った。。廃藩置県で終了した紀州藩の兵制改革は、徴兵制度では明治政府より3年先行しており、ドイツ式(プロイセン式)の導入としては15年先行していた。
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