長距離行軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 23:04 UTC 版)
マールバラ公の下で従軍していたオランダはフランス軍の脅威にさらされていたため、帝国中央のドナウ川遠征に難色を示していた。そのため、マールバラ公はバイエルンの南下ではなくモーゼル川とライン川の合流地点であるコブレンツに進軍すると発表した。フランス軍にも意図的に流したため、オランダのフランス軍を率いるヴィルロワ公は軍勢を2つに分け、半分はオランダに残し、自らはもう半分の2万の軍勢でマールバラ公を追撃する方針を採った。マールバラ公は5月18日にマーストリヒトからベトブルクに移動してフランス軍の様子を伺い、20日に2万の軍勢を引き連れて出発した。ネーデルラントにはオランダの将軍アウウェルケルク卿が残されフランス軍と対峙した。 25日にモーゼル川を渡りコブレンツに到着、ハノーファー、プロイセン軍と合流、ライン川東岸に沿って南下しつつ帝国諸侯の軍と合流してバイエルンへと進んだ。6月3日にマンハイムを通過してネッカー川を渡河、6日にフィリップスブルク近郊まで迫った。フィリップスブルクからすぐ西にランダウがあったため、イングランド軍を追撃していたヴィルロワはランダウに向かい、ストラスブールに残って帝国軍を牽制していたタラールも3万の軍勢でランダウに向かった。 ところが7日、イングランド軍は方向転換した。フィリップスブルクへは向かわず南東に進路を取り、10日にムンデルスハイムに到着してオイゲンと会見、翌日の11日にグロースヘパッハに到着して13日にルートヴィヒ・ヴィルヘルム及びオイゲンと打ち合わせ、ライン川のフランス軍はオイゲンに任せ、マールバラ公とルートヴィヒ・ヴィルヘルムはバイエルンに向かいフランス・バイエルン連合軍に立ち向かうことを確認、22日にマールバラ公らは4万の軍勢でドナウ川北岸のラウンスハイムに着いて東に移動、オイゲンはライン川の帝国軍3万を率いてヴィルロワ・タラールらフランス軍6万を足止めすることになった。 マールバラ公の目的はドナウ川を南下して帝国軍と合流、フランス・バイエルン連合軍を撃破することにあったが、フランス軍はオランダとドイツの2方面に分かれている上、前線にさらされているオランダは遠く南のバイエルンまで行軍することに反対だったため、マールバラ公はモーゼル河畔を戦場とすると周囲に嘘を流し、ライン川沿いを進みながら後を追うフランス軍をライン川を渡ると見せかけて牽制、帝国軍との合流を果たした。また、総距離400kmを進軍できた背景には周到な準備が重ねられており、大砲を始めとする重い物資はライン川を使って上流へと先行させ、川は周辺の領主にあらかじめ舟橋を架けさせたため、兵士が舟橋を架ける手間が省け進軍速度を速められた。宿営地に部下を先行させて現金、補給物資を用意させたため略奪も起こらず兵士と民衆の信頼を得られた。 一方、マールバラ公の意図を読めなかったフランス軍はオランダ側の軍を分割、ライン川からの会戦が予想されたため手をこまねいてドナウ川への進出を許すことになった。フランス・バイエルン連合軍にも動きがあり、アウクスブルク陥落前にマクシミリアン2世とヴィラールが衝突、ヴィラールはフランスへ召還されフェルディナン・ド・マルサンと交替させられた。タラールも5月にバイエルンに援軍を送り、フランス・バイエルン連合軍は合計4万に上がった。
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