1945年4月 ベルリン市街戦
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「アンリ・フネ」の記事における「1945年4月 ベルリン市街戦」の解説
「ベルリン市街戦」および「フランスSS突撃大隊」も参照 「共産主義は阻止せねばならぬ」 アンリ・フネ 1945年4月24日午後10時過ぎ、ドイツ北部からの長距離行軍によって疲弊した武装親衛隊フランス人義勇兵たちがシャルロッテンブルク区の国立競技場周辺の建物に分散・宿泊する間、グスタフ・クルケンベルクSS少将はミッテ区にある総統官邸に出頭していた。4月25日午前5時頃に国立競技場周辺へ戻ってきたクルケンベルクSS少将からベルリン市内の最新の状況を伝えられた大隊長アンリ・フネSS義勇大尉はフランスSS突撃大隊を再編した(ベルリン到着時点でのフランスSS突撃大隊の編成は次の通り)。 フランスSS突撃大隊 (Französische SS-Sturmbataillon):1945年4月24日 ベルリン 大隊長 アンリ・フネSS義勇大尉 (SS-Frw. Hstuf. Henri Fenet) 大隊副官 ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉 (SS-Ostuf. Hans-Joachim von Wallenrodt) 第1補佐 ジャック・フランツSS義勇少尉 (SS-Frw. Ustuf. Jacques Frantz) 第2補佐 アルフレド・ドゥールー武装連隊付上級士官候補生 (W-StdObJu. Alfred Douroux) 本部小隊 リュシアン・アンヌカールSS義勇上級曹長 (SS-Frw. Hscha. Lucien Hennecart) 第1中隊 ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉 (SS-Frw. Ustuf. Jean-Clément Labourdette) 第2中隊 ピエール・ミシェルSS義勇中尉 (SS-Frw. Ostuf. Pierre Michel) 第3中隊 ピエール・ロスタン武装上級曹長 (W-Hscha. Pierre Rostaing) 第4中隊 ジャン・オリヴィエSS義勇曹長 (SS-Frw. Oscha. Jean Ollivier) 戦術学校 ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉 (SS-Ostuf. Wilhelm Weber) 4月25日、ベルリン・ノイケルン区 (Neukölln) の防衛を担当する第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」(11. SS-Freiw.Pz.Gren.Div. „Nordland“) の師団長ヨアヒム・ツィーグラーSS少将 (SS-Brigf. Joachim Ziegler) が、「ノルトラント」師団の不活発な戦闘(これ以上の戦闘の無意味さを理解したツィーグラーSS少将が、部下(「ノルトラント」師団の将兵)を無駄死にから救うためにドイツ北部シュレースヴィヒ=ホルシュタインへ移動させようと画策したこと)を理由に、総統命令によって師団長の職を解任された。 その後、ツィーグラーの後任の新たな「ノルトラント」師団長として、4月24日に武装親衛隊フランス人義勇兵1個大隊(アンリ・フネSS義勇大尉のフランスSS突撃大隊)を引き連れてドイツ北部からベルリン市内へ馳せ参じていた元「シャルルマーニュ」師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将に白羽の矢が立った。総統官邸へ出頭する直前のツィーグラーから「ノルトラント」師団の疲弊しきった状態を説明されたクルケンベルクは、側近(第2補佐)ヴァレンティン・パツァークSS少尉 (SS-Ustuf. Valentin Patzak) に対し、国立競技場周辺に留まっているフランスSS突撃大隊をノイケルン区まで連れて来るよう命じた。 4月25日午後、「ノルトラント」師団の軍用トラック数輌に乗り込んだフネとフランスSS突撃大隊はピヒェルスドルフ (Pichelsdorf) を出発し、テンペルホーフ空港北部のグナイゼナウ通り (Gneisenaustraße) 沿いの兵舎に到着した 後、そこからノイケルン区に移動した。
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