1945年5月 ベルリン脱出
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「ヴィルヘルム・ヴェーバー (親衛隊隊員)」の記事における「1945年5月 ベルリン脱出」の解説
ベルリン市街戦の最終局面である1945年5月1日から2日にかけての夜、ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉は「ノルトラント」師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将が主導するベルリン脱出計画に参加した。 5月1日夜、「ノルトラント」師団司令部があるベルリン地下鉄ベルリン市中央駅にいたクルケンベルクSS少将は、航空省周辺に留まっている「ノルトラント」師団将兵の一部とフランスSS突撃大隊にベルリン脱出計画を伝えるため(彼らを自分たちと合流させるため)、ベルリンの地理を熟知している側近ヴァレンティン・パツァークSS少尉(SS-Ustuf. Valentin Patzak)を航空省へ派遣した。 しかし、パツァークSS少尉がその道中で行方不明となった(おそらく戦闘に巻き込まれて死亡した)ため、フランスSS突撃大隊指揮官アンリ・フネSS義勇大尉のもとへクルケンベルクSS少将からの指示が通達されることは無かった(フネと大隊の生存者数十名は航空省周辺に留まった)。やむをえずクルケンベルクは手勢のみを連れてベルリン市街北部(北西部)方面への脱出を開始した(この時、クルケンベルクのグループにはフランスSS突撃大隊と切り離されていた戦術学校の将兵が加わっていた)。 クルケンベルクと共にシュプレー川を渡った者たちはその後、小隊規模のいくつかのグループに分かれた。ヴェーバーのグループは戦術学校のフランソワ・アポロ武装曹長とウジェーヌ・ヴォロ武装伍長、第3中隊の主計ジャック・エヴラルSS義勇兵長(SS-Frw. Rttf. Jacques Evrard)を含む12名ほどのフランス人義勇兵、ドイツ人SS兵士とスカンディナヴィア人義勇兵から成っていた。西を目指して進む彼らのグループには2輌のティーガー重戦車が随伴していた。 しかし、ティーアガルテンまで辿り着いた彼らはシャルロッテンブルクへ続く道を塞ぐ赤軍の強固な抵抗に遭遇した。この戦闘でティーガー戦車2輌は敵陣の突破に成功したが、ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は赤軍狙撃兵に撃たれて戦死した。 この戦闘で生き残った者たちは分散してベルリン脱出を続けた。そのうちの1人エヴラルSS義勇兵長は、ベルリンの地理に不慣れなフランス人義勇兵の指揮官に付き従うよりもドイツ人の指揮官に付き従った方が良いと考え、ヴェーバーSS中尉に同行した。ヴェーバーのグループは市街地の廃墟を伝って移動したが、やがて彼らは赤軍に包囲されてしまった。絶望的な状況であったがヴェーバーたちは赤軍部隊を寄せ付けず、数時間、危険を承知の上で包囲突破を敢行した。 そして、ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉と他数名は奇跡的にも赤軍の包囲網を突破してベルリン脱出に成功したが、ジャック・エヴラルSS義勇兵長を含む多くの者は包囲網を突破することができなかった。
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