最終局面
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市民委員会とCDAVはそれぞれ個別に4月4日のゼネストで抗議するように呼びかけた。ボリビア政府は市民委員会のみを交渉相手にすると明言していた。 4月4日、朝から、各地で道路封鎖が実施された。CDAVを支持する団体もボリビア全土で幹線道路の封鎖を実施した。 4月5日、CDAVの集会で24時間以内にトゥナリ社との契約破棄を政府に要求する提案がなされた。感情的になった集会参加者は、即時破棄を要求してこの提案を否決した。トゥナリ社を占拠すべきだと主張を先鋭化した参加者達は、トゥナリ社の事務所へ向かって行進を始めた。途中、市民委員会の事務所も襲撃し、トゥナリ社の事務所に「人民の水」という看板を掲げた。オスカル・オリビエラによれば、CDAVの指導者達は群衆の暴力を抑えるように尽力していたとしている。 4月6日、CDAVと彼らの支持者による集会やデモが続いた。大司教の仲介で、CDAVの代表と政府閣僚、県幹部、市幹部、市民委員会代表等との会議に参加したが、結局、CDAVの代表はこの話し合いから排除された。夜22時、警察はCDAVの支持者たちによる占拠に対して強制排除を始め、CDAVの指導者たちを拘束しはじめた。 4月7日、午前3時、大司教の仲裁で、拘束されていたCDAVの指導者たちの釈放が実施された。40,000人近いCDAVの主張を支持する群衆が彼らを祝福して迎えた。CDAVの支持者たちは、トゥナリ社が撤退するまで市の中央広場を占拠し、道路封鎖を継続することを決定した。警察は再び、CDAVの指導者達の逮捕をはじめた。 4月8日、朝、政府は「今回の暴動は麻薬ギャングの扇動」と表明し、戒厳令を発した。これを受けてボリビア軍が出動した。軍はテレビ・ラジオを統制し、マスメディアから市民への情報を遮断した。コチャバンバの民衆は抵抗を激化させ、市庁舎を襲撃し、ゲリラ戦の様相を呈した。このとき17歳の青年が射殺された。 4月9日、暴動が収束しないのをみた政府は、CDAVとの話し合いに応じることを受け入れた。同日、ボリビア政府の代表とオスカル・オリビエラの会談が実現した。オスカル・オリビエラは、トゥナリ社との契約を白紙撤回することを要求した。 4月10日、政府代表とCDAVとの間で協定書が交わされた。協定書はSEMAPAがコチャバンバの水供給に責任を持つこと、SEMAPAの運営についてコチャバンバ市、CDAV、SEMAPAの労働組合からそれぞれ2名ずつ代表とした参加する暫定理事会を設置すること、法律2029号の修正が盛り込まれた。4月13日に国会が臨時招集され、協定書を承認した。またトゥナリ社との契約解除を証明する書類が提示されたことをうけて、蜂起した民衆たちは道路封鎖の解除に応じた。 4月20日、ウゴ・バンセル大統領は戒厳令を解除し、国民に対して謝罪した。
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最終局面
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「マニラの戦い (1574)」の記事における「最終局面」の解説
「プリンキパリア」も参照 林鳳はパラニャーケに向けて略奪を行い、サルセードはマニラを再建して第三次攻撃に備えた。夜間、浜辺にたくさんの松明が灯されて混乱したが、倭寇の遺留品を物色するルソンの地元民であることがわかり、その後、林鳳の艦隊が確実に北に退却したことがマニラに知らされた。戦後、地元の民兵の一人であるガロは、その勇敢さと指導力により、貴族や高位聖職者だけに許されたドンの称号を与えられた。 ラベサリスが追撃艦隊を集めるためにパナイ島、カマリネス島、セブ島から軍を呼び寄せている間、サルセードはトンドとミンドロの暴動を解決するために派兵された。彼は自ら酋長のラカンドラを説得して降伏させ、火攻めで拷問されていた聖職者の人質を解放した。
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最終局面
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「グロースゲルシェンの戦い」の記事における「最終局面」の解説
17時頃、北東からマクドナル元帥指揮下の第11軍団も戦場に到着した。ジェラール(英語版)とフレシネ(英語版)両将軍の師団はマルクランシュテット(英語版)を経由して強行軍で連合軍の右翼へと前進し、ロシア軍からアイスドルフ村を再び奪還することができた。17時30分頃、中央で疲弊したプロイセン軍はもはや攻撃を続けられる状況になく、ロシア軍が士気旺盛な部隊をもって戦いに加わるべき時が来ていた。ヴィトゲンシュテイン大将は左翼がシュターズィーデルに展開するマルモン軍団によって新たな脅威に晒されていると考え、サン=プリエスト子爵(英語版)中将とシャチョウスキー少将の師団を加えたオイゲン・フォン・ヴュルテンベルク中将指揮下の第2歩兵軍団にのみ反攻を許可した。今や右翼でフランス軍と対峙していたのはベルク伯爵中将の第1歩兵軍団と、ゴリツィン(英語版)侯爵中将指揮下の予備騎兵軍団に属する集団のみとなったのである。 18時30分頃、フランス側にイタリア副王率いるさらなる増援が到着した。ウディノ元帥の部隊なしでもナポレオンは、午後には連合軍に対して125,000名を投じることができた。コノヴニーツィン将軍指揮下のロシア擲弾兵軍団の来援は遅きに失し、アイスドルフ付近でフランス軍に撃退される。スアム師団将軍によってモイヒェンから呼び戻された、意気軒昂なマルション師団は中央で前進を命じられ、建物を巡る戦いの末にクラインゲルシェンを奪還した。戦いの中で負傷したブリュッヒャー大将は戦場を離れねばならず、ヨルク中将がプロイセン軍の指揮を引き継ぐ。奪い合いの続く四つの村の一帯に、ナポレオンは完全な勝利を得るべく遂にデュムースティエ(フランス語版)師団将軍指揮下の近衛部隊を前進させた。古参近衛隊と新規近衛隊所属の16個大隊が成功させた攻撃は、およそ80門の大砲に支援されていた。その晩の後半には、戦場のほとんどはフランス軍が手中にしており、夜を徹してプロイセン軍が確保していたのはグロースゲルシェン村のみであった。 連合軍は翌日も戦闘を続ける予定であったが、ヴィトゲンシュテイン大将は連合軍の参謀本部をヴェルベン(ドイツ語版)村近郊の丘陵に招集した。届いた報告によればローリストン少将率いるフランス第5軍団がすでにライプツィヒに進攻しており、連合軍は包囲の危機に瀕し、弾薬は残りわずかとなっていた。ヴィトゲンシュテインはグロイッチュ(英語版)の主君の許へ赴き、5月3日にアルテンブルクを経由し、ドレスデンへと撤退する許可を得た。
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最終局面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 13:45 UTC 版)
アクション系などの場合、最終局面の敵、いわゆるラスボスは@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ほぼ主人公が倒すこととなる[独自研究?]。(必ずしも一人とは限らず、仲間或いはライバルなどの協力を得る場合もあるがとどめの一撃は必ず主人公)いかに主人公より強い人物がストーリー上にいたとしても、敵のNO.2を倒す程度にとどまっている。
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「最終局面」の例文・使い方・用例・文例
- 最終局面に入る.
- 最終局面なしで
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